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それをあれほどの精度で弾いて退けた上に、彼のバイオリンから紡がれるその音色は情動的で力強く、作曲者の意志に従いながらも、彼らしい音の表現を帯びていた。
美しい指先から奏でられる一音一音が澄み渡った厳かな空気をその身に纏って、そして朝倉さんの音楽は何故だか時折、精密機械のような正確さの中に悲壮や苦悩を連想させた。
───朝倉陽って、どんな人なんだろう?
朝倉さんと同世代でクラシックに携わった人間の多くが、そんな風に想像を廻らせたに違いない。
もちろん私もそのうちのひとりだった。だけど朝倉さんはそんな私を見て、綺麗な顔にそっけない微笑を浮かべた。
「冗談だからそんなムキにならなくていいよ」
「…失礼しました」
「五回ね、了解。それなりの演奏が出来るようにコンディションは整えておくよ」
「よろしくお願いします」
こちらこそよろしくね、と今度は朝倉さんのほうから差し出された握手に私はおずおずと応えた。
やんわりと握られたその手からは何の信頼も窺うことは出来なかった。それがどうしようもなく悔しいのを、朝倉さんには気付かれまいと下手くそな笑みを浮かべる。
───…ただ遠征で日本に来たついでに製作するディスコグラフィーの担当を任された、よく知りもしない女。
信用に値するとも思ってないよ。
だから自分の仕事だけしてね。
それ以上は踏み込んでこなくていいから。
そんな心情がまざまざと透けて見えて、というよりもわざと朝倉さんから見せられているみたいな気がして、悔しかった。
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