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その日の夜は遅くまでだらだらと仕事をした帰りに、せっかくの金曜だからと甲斐くんに誘われて飲むことにした。
営業部もまた決算を前に相当厳しめの数字の詰めが来ているらしく、甲斐くんは普段の爽やかな笑顔の裏側にややくたびれた様子を窺わせている。
「随分とお高く留まってんなあ」
そんなに凄いの?と朝倉さんとの一件を聞いて悪態をつく甲斐くんは、あまりクラシックとは縁のない人生を歩んできたそうだ。
「それが困ったことにそんなに凄いの」
「世界に誇る超絶技巧ねえ」
「バイオリンてね、本当に繊細で、弦を押さえる指の角度がほんの少しずれただけでも音程が変わるような楽器なの」
バイオリンという楽器は正確無比な音階を弾くだけでも人を感動させられるものだ、と言われるほどに演奏困難な楽器である。
けれど朝倉さんはどれほど難解な譜面であろうと決して一音もたがえることなく、輝かしいまでの力強さで聴衆の心を攫ってゆく。
「でも成宮だって上手かったんだろ?」
「結局プロにすらなれなかった私と世界随一の技巧派とまで言われてる朝倉さんを比べること自体烏滸がましいよ」
「そんな違うもんかねえ」
「甲斐くんも楽器してたならわかるでしょ?」
「まあそれはわかるけど」
甲斐くんは学生時代にロックバンドを組んでいたから、音楽関係の仕事に就きたくて、手当たり次第にこの業界を受けまくり、採用が出たのが今の会社だけだったらしい。
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