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本当はね、ちゃんとわかってますよ。
朝倉さんは誰が相手だろうと、自分の仕事で手を抜くような人じゃない。だから私がこうして彼の懐に必死で入ろうとする必要も、ないのかもしれない。
耳の奥に憧憬が浮かぶ。
正確無比な、情動的で美しい奇想曲。
「…それでも、私はどうしても、朝倉さんに信頼していただきたいんです」
国際コンクールを制して以降、欧州を中心に活動していた朝倉さんが帰国するまで七年掛かった。
その頃には天才少年から世界的バイオリニストに通り名を変えていた彼は、その年の冬、東京国際フォーラムで帰国後初めてとなるリサイタルを開催した。
当時の私は大学三年生の冬で、理想と現実の狭間に立っていた。演奏家としての才能に乏しい自分を受け入れるにはあまりに狭量で、だからこそ苦しくて。
そんな時、大学で師事していた先生に誘われて朝倉さんのリサイタルを聴きに行ったあの日が、今思えば私の人生における分岐点だったのかもしれない。
母国である日本で最初に彼が弾いたのは、国際コンクールで優勝した時にも演奏したパガニーニ作曲『24の奇想曲 第24番』。
悪魔と呼ばれた鬼才パガニーニの超絶技巧を世に知らしめるかのような世界屈指の難曲。無伴奏によるその曲は、朝倉陽というバイオリニストのために生み出されたのではと錯覚するほどに、彼のものだった。
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