1440人が本棚に入れています
本棚に追加
「成宮さんはまだ帰んないの?」
今夜は名古屋に泊まりになるんだろう、枝光さんが大きめのボストンバックを肩に下げてスタジオを後にしたのを見送った後、朝倉さんが尋ねてきた。
「私はこのまま会社に戻ります」
「ふぅん」
「朝倉さんは今からどこか行かれるんですか?」
「爺ちゃんの店」
まだ日も高い今の時間から?と不思議に思ったのが顔に出ていたんだろう、彼は質問する前に付け足してくれる。
「時々あの店で練習してんの」
「お店なら気兼ねなく練習できますもんね」
「瀬奈が用意してくれた仮住まいの部屋にも防音室はあるんだけどさ、俺、狭いとこで弾くの嫌いなんだよね」
「それわかります!音が頭の中でぐわんぐわん反響しちゃってたまに音酔いしますよね?」
「あれ気持ち悪いよなー」
あの革のバイオリンケースを背負っている以外は何も持っていない様子の朝倉さんは、いつ見ても荷物が少ない。
スタジオがある建物を出たすぐ横手にある喫煙スペースを見つけた彼は、嬉しそうな声を上げて煙草の箱を取り出している。
彼岸を越えても、今年の夏はなかなかしぶとい。
地球温暖化の足音が聞こえる。
照りつける太陽の日差しを恨めしい気持ちで睨みながら、私は美味しそうに煙草を吹かす朝倉さんに別れを告げて駅を目指した。
最初のコメントを投稿しよう!