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都市部から少し離れた小規模な町、夕月町。
そこまで大きくない町だが、ここには有名な宿がある。それが古い武家の家を改装した宿、月見処。
この宿にはとある言い伝えがある。この宿のどこかの一室から満月を見上げた男女は、それはそれはとても強い縁で結ばれるという。
そのためか、男女のカップルが泊るために都市部から来ることが多く、町おこしの中心的な存在になっている。
この宿を訪れるお客を最初に出迎えるのは、二匹の雌の猫だという。
だが、この猫たちは宿で飼っている猫ではない。それどころか、この猫たちが一体どこに住み家を持ち、一体いつからこの宿の玄関先に顔を出すのか知る者はいない。
野良猫にしては姿が麗しく、どこか妖しげな雰囲気を持っているこの猫たち。今日も宿に来る客を、目を細めながら眺める。
まるで、品定めするかのように。
◇
さて、とある夏のこと。満月も近くなったある日、月見処にやってきたのは一人の男。名を竜也という。
この男、会社での仕事にうまく馴染めず、小うるさい上司からはいつも怒られ、同僚たちは昇進レースの先へ行ってしまうという悲劇に見舞われている。
住んでいる部屋に帰っても、出迎える彼女も家族もおらず、毎日機械的に食事と睡眠で過ごすばかり。
ああ、何をやっているんだろうか俺は。そんな思いばかり膨らみ、こんなはずじゃない、こんなはずじゃないんだ。そんな思いばかりが頭の中を犯し始め、ため息とともにこの宿にやってきた。
彼は学生時代には登山を趣味にしていたので、変なことを考え始めている自分を慰め、息を抜くためにこの町の近くにある小さな山を登ってみようか。そう思いやってきたが。やはり気分は重いばかり。
車から降りた次の瞬間にはため息が出ている。
擦るように足を動かしながら宿へと歩み寄る。宿の前には、白く麗しい毛並みの猫が退屈そうに丸まっていた。
その白猫は、顔をゆったりと上げる。すると彼を見て、目を大きく見開いた。
そのまま彼の足元に来ると、尻尾をあげ、すり、すりと体を足にこすりつけてくる。
何だ何だと驚く竜也であったが、そっと足を動かせば、その足に合わせ動くので、蹴飛ばす心配もないとわかり、少しホッとしつつそのまま宿へ歩き始める。
ふと、もう一匹。今度は宿の裏側から滑らかな毛並みの黒猫がやってきて、足元の猫と見つめ合った後、さっとどこかへ走って行った。
まあ人には中々好かれないが、何故かこの猫には好かれたのかな。なんて思いながら、宿に入り、入り口で宿泊手続きを取る竜也。
その手続きを行っている宿の従業員は、彼の足元にいる猫を見て珍しいこともあるものだと思う。
この白猫はとても気難しく、宿に来る人を試すように眺めているが、近づくとすぐに逃げる猫なのだ。
だが猫は気まぐれ。こういうこともあるか。と従業員が思っていると、仲居の女性がやってきた。
この仲居の女性。長い黒髪はどこかしっとりとした美しさがあり、優し気な目じりで竜也を眺めている。
そしてその仲居の女性に連れられ、竜也は宿の奥へと進んでいった。
この時、従業員はふと、こんな美しい仲居がこの宿にいたかな?
なんて疑問に思ったが、竜也の足元の白猫と目が合うと、何故か、そんな疑問が消えてしまい、そして彼が宿の奥へ行けば、その仲居のことなど綺麗に忘れていた。
◇
こんな美しい女性が本当にいるのか。
そう前を歩く仲居の女性を眺めて思いながら、宿の廊下を歩く竜也。足元には一匹の白猫が、蹴飛ばされないよう、だがぴったりと足元について来る。
そして、宿の奥にある大きな扉。その前に来ると、白猫はナォンと一鳴きし、扉の前へ向かう。
そして、黒髪の仲居がゆっくりとその扉を開ける。
その内部は一人用の宿泊部屋のようだ。だが一般人が泊るには、いささか高くつきそうな和風の内装で、本当に今回泊るのはこの部屋なのかと聞けば、耳がとろけそうになるような声色で、黒髪の仲居は言う。
「はい。この部屋はあなたのお部屋です」
何故かその言葉が心にしっくりきた。そうだ、この部屋は俺の部屋。さあこの部屋に泊ろうではないか。
そう思い、荷物を運び入れ、ゆっくりと扉を閉める。
白猫は流石に部屋の中までは入ってこなかった。まあ当たり前か。
そして戸を閉めて、荷物を適当に置き、和風の宿泊部屋に置かれた、ゆったりとした椅子に深く座り、目をゆっくりと閉じる。
その瞬間、急激に眠気が襲ってきた。
疲れていたのだな。こうして美人さんの仲居のいる宿でゆっくりしたら、安心して眠気が襲って来たのだろう。そう思った。
そっと目を開け、傍の仲居を見やれば、にこり、と彼女は顔をほころばせ、お休みなさいませ、旦那様。という声と共に、意識は、心地よい闇の中へ。
ゆっくり、ゆっくりと、堕ちていく心地よい感覚に身を任せた。
◇
意識が落ちていく。落ちて、堕ちて、奈落の底へ向かうかのような、そんな感じがする。
だが、そんな不気味な感覚なのに、不思議と不快感はない。
いや、それどころか。何か、暖かいものに包まれてゆくかのような。
そんな感覚のまま、意識を落としていると、どこからか、声が聞こえる。
起きて下さいまし。旦那様。
その声が闇の中に響いた瞬間。意識は、堕ちきった。
◇
目を開ける。ゆっくり、ゆっくりと開ける。強烈な眠気を感じたはずなのに、何故かその眠気はスッキリと消えていた。
そして目を開けると、部屋は薄暗い。和風の宿によく合ったフロア照明が、ぼんやりと自分が見上げる天井を照らし、部屋の窓からは、月の光が冷たくも優しく入り込んでいる。
自分は夜まで寝てしまっていたのか?
と、疑問に思っていると視界に、流れるようで、輝いているかのごとき銀の髪をした女性の顔が。この女性に膝枕されている?
びっくりしたが、不思議と体が起き上がらない。
そして、その銀髪の女性。黒髪の仲居さんもとても麗しかったが、この別の仲居さんと思われる女性も、負けないどころか、それ以上に美しいと感じてしまう自分がいた。
「貴女は?」
と問うと。女性は耳心地の良い声色で、声を響かせる。
「ここは、貴方様の夢の中でございます」
「え?」
と更なる疑問を感じていれば、その女性が手を振ると、机の上の茶器が勝手に動き、お茶が自動で点てられる。
「ほら。このような事、現実で起こるはずがありません。そして、この香りを感じてください」
その言葉を聞き、鼻に集中すれば、優しく、甘く、何も考えたくなくなるような。そんな香りを感じる。
「この香りは、あなたが夢を見ている間、ずっと感じるはずです。では夢の世界を、存分に」
その歌う様に響く言葉。それに疑問など感じられなかった。
そうか。今、俺は現実ではない夢の中にいるのか。
そう納得し、銀髪の仲居さんの膝枕を、ゆっくりと楽しみ、その後、お茶を共にした。
◇
夢の世界というのはなんとも、どこか現実味がある世界ながら、とても幻想的だ。
お茶と茶菓子を存分に楽しんだ後、銀髪の仲居さんに連れられ部屋を出れば、ぽわん、ぽわんと白い光、黄色い光、ピンクの光が、踊るように廊下を照らし、その奥には、夢の外にいた黒髪の仲居さんの姿もあった。
「では、宿の中を少し歩きましょうか」
その言葉がどちらの唇から歌われたのかはわからないが、とにかく宿の中を歩こうという気分になる。
宿の中は、意外と新築のような見た目ながら、古い時代の内装だ。きっと、この夢の外にある宿も、建てられた当時は、これくらい真新しい輝きがあったはずだろう。
そう思いつつ、二人の仲居さんに先導され、ゆっくりと宿を見て回る。
ふと、自分以外の宿泊客や、宿の従業員は?
という疑問が浮かんだが。
その疑問が浮かんだことすら忘れてしまうほどに、宿の中は気が落ち着き、安心できた。なぜだろうか。この香りのせいかな?と思いつつ、仲居さんに連れられ、やってきたのは露天風呂の前の、着替える部屋のようだ。
露天風呂とは風流だ。入ろう。そう思い、スーツを脱ぎ、腰にタオル……いや、布を巻きつけ、露天風呂へ。
風呂の温度はとても心地よく、暖かで、体が溶けてしまいそうだと思うほどだ。
湯に浮かぶのは、徳利に入った酒。そして、天高くに満月。これほどの贅沢。夢とはいえ味わって良いのだろうか。
そう思いながら酒を味わう。旨い。
◇
露天風呂を出た時には、湯の温度と酒の酒気。そしてずっと感じている香りのおかげで、既に思考などトロトロに溶け始めていた。
そんな竜也が脱衣所に戻れば、そこには、和風の着流し。だが着ていたはずのスーツがない。
一瞬、竜也は疑問に思い、待っていた銀髪の仲居さんに聞くが、妖しく美しい笑顔で。
「これは、貴方様が気に入り、着ていた服でございます」
と言われた。普通なら疑問を感じるはずの答えに、竜也はなぜか納得する。
そうだった。この服は気に入っていた服だった。何を勘違いしていたのだろう。
そう思いつつ、着流しを着せてもらい、露天風呂を後にする。
ふと、空腹感を感じた。夢でも腹は減るのだな。なんて一瞬思うが。
そう言った疑問の類は、トロトロに溶けて消えていき、残っているのは、腹が減ったという感覚のみ。
空腹を伝えれば、銀髪の仲居は、歌うように今晩のご馳走の類を伝えてくる。
その様子を眺め、黒髪の仲居は思う。
夢の中の空腹に疑問を感じないほどに、溶けてきたかと。
◇
広間に用意されていたのは、海産物を中心としたとても豪勢なご馳走だった。
とてもおいしそうだ。だが、何故に海産物を中心に?
と、竜也が聞けば、銀髪の仲居は不思議そうに。
「これは、あなたの好きなご馳走達ですよ」
そう言われ、流石にとろけた脳でもおかしくはないかと感じるも、銀髪の仲居が箸で刺身をつまみ、口の前に運んでくれば、その疑問がどうでもよくなるどころか、その疑問を感じたことを忘れ、こう思った。
そうだ、俺は海産物が好きだったんだ。
そして竜也は、二人の仲居にかわるがわるご馳走を食べさせてもらった。
その後、腹が満たされれば夢のはずなのに何故か眠気を感じ、それを銀髪の仲居さんに伝えれば。嬉しそうに頷かれ。
「では、お布団はすでに用意済みですので。ごゆるりと」
と言われた。そして竜也は、敷布団に包まれ、ゆっくりと意識を落とす。
奈落の底、底の底。その果てへと。
◇
「ねえ、クロ」
「なに、ハク」
「やっぱり、この人が旦那様だよ」
「そう、だね」
「お気に入りの着流しも着てくださった。好物も、美味しいと言ってくださった」
「ねえ、ハク」
「もう一歩、もう一歩で旦那様は戻ってくださる。じゃあ、私は最後の仕上げに移るから、旦那様を見守ってて」
◇
「やっぱり、間違ってるよ」
◇
落ちた先。落ちて、堕ちて、奈落の先へ意識が飛んだ竜也。
ふと、竜也が気付くと、目の前に男性がいた。
その顔は整いつつも、短髪でどこか武骨な男性。
彼は言葉を紡ぐ。
「目覚めよ」
その一言で竜也の意識は、一気に奈落の果てから浮かび上がってくる。
そして、今まで感じるはずだった、感じなければならなかった疑問が、復活する。
そして、全ての疑問は、この一言に集約された。
「ここは、本当に夢なのか」
その問いに、目の前の男は首を振る。
「なら一体」
「ここは俺の魂の記憶を、お前の魂から引っ張り出すために、俺の飼い猫たちが作り上げた世界だ」
「え」
「俺はお前のはるか前の前世」
「俺の前世」
「そうだ。そしてお前を俺と見込んで頼みがある」
「頼みだって」
「時間がない。頼む。あの猫たちを、目覚めさせてくれ」
◇
銀髪の仲居、いや、ハクは古びた刀を持ち、竜也の寝る寝室にやってきた。
がらり、と戸を開ければ、竜也が満月を見上げていた。
「お目覚めですか」
「いや、まだ夢の中だよ。ハク」
その一言にハクは目を大きく見開き、涙をはらり、はらりと流し始めた。
「では、私の名を思い出したという事は、お目覚めになられたのですね。旦那様」
そう、涙を流しながら、ハクは竜也に抱き着いた。
「ずっと、ずっとお待ちし、ずっとお慕いしておりました。旦那様」
そう言い、涙を胸の中で流すハクを、竜也は一瞬、抱きしめ、撫でそうになる。
だがそれを溶けたはずの理性で抑え込み、そっと、肩を掴み、自身の体から離す。
「いや、まだ夢の中。眠っているんだよ」
「どういう意味でしょうか」
竜也は、目の前にいるハクに、優しく諭すように、言葉を紡ぐ。
「ハク。死んだ者はもう戻らない。生き返らないんだ」
「そんなことありません」
「いや、それが世界の。神の定めた摂理だ。それをひっくり返せば、君にひどい呪いがかかるんだよ」
「呪いなど怖くありませぬ。貴方様を失う恐怖に比べれば」
「ハク」
そこで竜也は胸の奥の果て、魂の奥が悲しくなるのを感じながら目を閉じ、さらに言葉を紡ぐ。
「夢は覚めるんだ。俺の今見ている夢も、君の今見ている夢も」
「いいえ、覚めませぬ。目覚めたくなどありません」
「クロ。お前もいるんだろう」
そう言葉を発せば、黒髪の仲居。クロがやってきた。
「ごめんなさい旦那様。私、ハクを止められなかった」
「ありがとう、クロ。ハクから離れず、ずっと一緒にいてくれて」
そのまま竜也は満月を見上げた。
「綺麗な月だ」
「はい、旦那様も、月がお好きでした」
「なあ。ハク、クロ」
一緒に、月を見ながら、目覚めよう。
その言葉に、ただ涙を流すハクと、彼女を支え、気丈に涙を我慢するクロ。
二人は竜也の両側に立ち、月を見上げる。
そして竜也はハクの持ってきた刀を抜き、自身に突き立てた。
満月の照らす世界には、ハクとクロだけが残った。
◇
ゆっくりと意識が浮上する。
宿の普通の和室で目覚めた竜也。宿の従業員に聞けば、自分は普通にチェックインしてこの部屋に泊ったのだという。
そして夢から覚めた竜也が真っ先に行ったのは、この宿の歴史を知る事だった。
なんでも、この宿の元の持ち主の武家は、二匹の猫を飼っていたという。
その猫たちと、良く月を見上げている姿が、仲睦まじい夫婦のような姿に見えた人々の話が代わりに代わって伝わって、縁結びの宿になったのだという。
一晩、この宿に泊まったことになっていた竜也は、あの二匹の猫を探したが、どこにもいなかった。
あれは、全て夢だったのか?
そう思いながらも、風化しないその夢……いや、思い出を、心に感じつつ。
もう一度、月を見上げ、彼女たちが目覚め、輪廻の輪に加われるよう、祈ろう。
そう思い、夜を待ち、宿の着流しを着て、スーパーで買った刺身と酒を用意し、月を見上げた。
満月が美しくも、もの悲しく竜也を照らす。
そうだ、仕事にもう一度向き合う。
夢は覚める。だが、現実は覚めない。
なら、後悔しないよう、もう一度生き方を見直すんだ。
そう決意し、酒を、くいっと一飲み。
◇
その瞬間、宿のどこからか、二匹分の猫の鳴き声が。
響いたとか、響かなかったとか……
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