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プロローグ
「当ホテルのサービスの内容につきましてはくれぐれも秘密厳守でお願いいたします。また、如何なる理由があろうともプラン参加中の中途解約には応じられません。以上のことにご了承いただけましたならば、こちらの欄にサインをお願いいたします」
支配人の男の右手の細い指が、文字で埋められた一切れの紙を指し示す。彼の左手に握られた万年筆が優雅な所作でこちらに差し出された。私はぴかぴかした高価そうな万円筆を無言で受け取る。男の指の先にある空白に震える手で自分の名前を綴った。心が少し軽くなる。もうすぐ私はこの苦しみから解放されるのだ。
目を上げると、狐を思わせるような細面の支配人が営業スマイルで微笑んでいた。
「契約のお手続きは全て終了いたしました。お時間をいただきましてありがとうございます。それでは、次に宿泊プランの説明に移らせていただきます。……カイエダ君、例のものを持ってきてくれ」
「はい!」
支配人の傍らに立っていた若いホテルマンが元気よく返事をした。童顔の丸顔で、人が良さそうな雰囲気だ。支配人が狐だとしたら、こちらは狸に似ているかもしれない。
カイエダ君と呼ばれた彼は、フロントデスクの奥の扉の向こうに消え、しばらくすると、透明なプラスチックケースと、ひと抱えほどの大きさの鉢植えをカートの上に載せて戻ってきた。鉢植えの上では、深緑色の葉がわさわさと揺れている。プラッスチックケースの中にも、同じ植物の枝が1本だけ入れられているようだった。
支配人は、プラスチックケースの中から枝を取り出した。顔を近づけて、葉の一枚一枚を丁寧にチェックしている。
「ああ、ありました。これですね」
支配人は私の顔の前に枝を差し出した。
「この葉の上をよくご覧になってください。ここに卵があります。見えますか?」
盛り上がった葉脈のすぐ傍に、白くつやつやした物体がちんまりと貼り付いていた。大きさは、米粒よりもやや小さいくらいだ。
「見えます。これは……?」
「ワスレナマダラアゲハの卵です」
「わすれなま……何ですって?」
「この地域にしか生息していない非常に珍しい蝶です。お客様には、当ホテルにご滞在中に、このワスレナマダラアゲハを育てて成虫にしていただきます。ワスレナマダラアゲハの餌は、この植物……ミヤマオモイデバラ、そして、お客様の記憶です」
「私の記憶……?」
「はい。お客様は、『忘れたい記憶』を心に思い浮かべながら、ワスレナマダラアゲハの世話をしてください。と言っても、ワスレナマダラアゲハの幼虫は、ミヤマオモイデバラの葉を食べていれば勝手に成長しますので、世話はそんなに難しいものではありません。それに、直接、世話をしていない時でも『忘れたい記憶』を思い浮かべながらワスレナマダラアゲハの傍にいるだけで、ワスレナマダラアゲハはお客様の記憶を吸収してくれます。ワスレナマダラアゲハはとても短命で、寿命は約2週間……ワスレナマダラアゲハが成虫になり、寿命が尽きた頃には、お客様も『忘れたい記憶』をキレイサッパリ忘れられている事でしょう」
私が抱えた「忘れたい記憶」……確かに、私はそれを私の中から消し去るためにこの「ホテル・トコヨ」にやって来た。「忘れたい記憶」を忘れさせてくれるスペシャル宿泊プランがあるという噂をインターネットの海の中で偶然見つけたのだ。ホテルの公式サイトにはもちろんそんなプランは載っていない。だから噂がデマである可能性も否めなかったが、私は思いきってホテルに電話をかけた。
「ああ、それは『バイバイ・メモリイ・プラン』の事ですね。このプランは実施できる時期が限られていますので、公式サイトには載せていないのですが……お客様は幸運です! ちょうどこのプランに空きがあるのですよ。今、このお電話でご予約いただければ、いらっしゃった時に直接プランのご説明をさせていただきます」
淀むことなく愛想良く返された、少し高めの男の声は、今思えばこの支配人だった。私は忘れたかった。とにかく忘れたかった、あの人の事を。だから、否も応もなく予約を取り付け、次の日にはスーツケースを引きずりながら電車を乗り継ぎ、片道2時間をかけ、とうとうこのホテルにたどり着いていた。
しかし、私の縋るべき希望であるはずの「バイバイ・メモリイ・プラン」が、まさか2週間かけて1匹の虫を育てることだったなんて!
私はプランの内容を何も聞かずに契約書にサインをしてしまった自分の軽率さを悔やんだ。
「あの……私、虫が苦手なんですけど……。それにチョウチョの子供ってイモムシでしょう?」
私はおそるおそる支配人に言った。精一杯の不快感と抗議の気持ちを表情に表した……つもりだ。
「ははは……過去にこのプランを申し込まれた方の中にも虫嫌いという人は多かったですね。しかし、しばらく一緒に過ごしているうちにだんだん可愛く思えてくるものです。それにお客様のご滞在中は、ワスレナマダラアゲハの世話も含めて、ここにいるカイエダが全面的にサポートさせていただきます。ご心配されることは何もありません」
「よろしくお願いします!」
カイエダ君と呼ばれたホテルマンがぴょこんと勢いよく頭を下げた。貼り付けたような支配人の営業スマイルはなんとなく胡散臭くて苦手だが、カイエダ君の無邪気な笑顔は裏切れない気がする。
「お部屋のキーはこちらでございます。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
「お荷物と飼育セットをお部屋にお運び致しますね!」
カイエダ君は私のスーツケースをてきぱきとカートのミヤマオモイデバラの隣に載せ、エレベータに向かう。私は支配人に手渡されたカードキーを握りしめた。とんでもないところに来てしまったのではないか、という不安が心をよぎる。しかし、後には引けない。どちらにしろ、私はあの人の事を忘れなければ前に進めないのだ。立ちすくんでいる私を、カイエダ君がエレベータの前で待っていてくれている。戸惑いと不安を無理矢理振り切るような気持ちで、私は大きく一歩を踏み出した。
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