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3齢
私は、ワスレナマダラアゲハに「ユメ」という名前を付けた。古来、蝶は夢虫と呼ばれていたという話をどこかで読んだことがあったからだ。
そのユメが孵化して早4日が経った。
今朝、ユメは2回目の脱皮をした。2回目だから私もそれ自体にはもう驚いたりはしないし、ユメの見た目にもだいぶ慣れてきた。ただ、この4日の間に随分大きくなったものだと感心している。はじめは爪の先ほどの大きさだったユメも、今は人差し指より少し短いくらいになっていた。カイエダ君によると、2回目の脱皮の後の幼虫の成長の度合いは「3齢」と呼ばれるステージにあるらしい。3回目に脱皮すると「4齢」、4回目の脱皮の後は「5齢」、そして、5齢の幼虫は蛹になり、やがて蝶となる。
短命のため急ピッチで成長しなければならないユメの食欲は旺盛だった。昨日は、朝のうちにケースに入れた枝の葉を午後には全部食べ尽くしていたので、おかわりを入れてやらなければならなかった。
そして、鉢植えの葉が目に見えて少なくなっていくのと呼応するように、私の記憶にも明確な変化が現れ始めていた。
「思い出せない……」
右手の薬指の指輪を見ながら呟いた言葉は、潮風に吹き散らされる。私は、浜辺の遊歩道に佇んでいた。1日1回はこの遊歩道に散歩をしにくるのが日課になっている。遊歩道は、ちょうどホテルの真下を通っている。振り返って見上げると崖の上にホテル・トコヨのコバルトブルーの瓦屋根と白い外壁、そして、客室のバルコニーの連なりが見えた。3階建て、客室は2階と3階に3部屋ずつの計6室。私の部屋は3階の真ん中の部屋だ。改めて外観を眺めると、ホテルというよりもペンションという言葉の方が似合うような気がする。
遊歩道には、私以外に人は誰もいない。海面から顔を出した黒い大岩の群に波が押し寄せて砕け散る。沖合には、派手な波飛沫を上げながらクルージングボートが走っている。
黄金色の指輪を指からそっと抜き取った。これは、もちろん、あの人からもらった婚約指輪……のはずだ。
そう、あの人からもらったのだということは覚えている。でも、いつ、どこで渡されたのか、思いだそうとしても思い出せなくなっていた。これをもらった時、あの人はどんな顔をしていた? 私は? 嬉しかった? それとも困っていた?
まるで思い出せない。
これは、私の記憶が順調にユメに食べられているという証拠だ。このまま行けば、2週間後には本当にあの人との事は綺麗さっぱり忘れられているに違いない。ほんの少し、胸に痛みを覚えた。寂しくないと言えば嘘になる。たとえ記憶を消去したとしても私があの人を愛していたことは事実なのだから。でも、忘れることを選んでここに来たのは、他でもない、この私なのだ。
右手に指輪を握ったまま、腕を振りかぶった。海に捨てよう。そう思った時、背筋にピリリとしたものが走った。言葉にできない不安に唐突に襲われ、動悸が速まる。
波と風の音の中に、エンジン音を聞いた。顔を上げる。
さっきまで遠くを走っていたボートがすぐ近くにあった。ボートは波に煽られ、ガクンと傾き、岩礁に突っ込んだ。爆発音。真っ赤な火の手が上がる。
まるでアクション映画みたい、と一瞬思った。
ボートはメラメラと燃えていく。炎の中で人の叫び声がする。
私は踵を返した。とりあえず通報しなくては。海の事故は118番だっけ? 携帯電話は部屋に置いてきてしまった。私はホテルへ続く坂道を駆け上がった。
ホテルのロビーに駆け込むと、支配人のイガタさんがこちらに背を向け、フロント横の窓から海の方を眺めていた。
「事故のようですね」
イガタさんはくるりとこちらを向いて無表情に言った。
「はい……118番通報、お願いします」
「先ほど通報しておきました」
「あ、良かった」
「あとは海上保安庁の方が処理してくださるでしょう」
イガタさんの肩越しには、いまだ黒い煙をもうもうと噴き上げながら燃え上がるボートの姿が見えていた。
「それにしても冷静でいらっしゃいますね」
「え?」
「目の前で大きな事故が起きてもっと動揺されていらっしゃるかと思いましたので」
イガタさんは微笑んだ。その笑顔は、カイエダ君の笑顔とはまるで違う、黒々とした深淵に相手の意識を引き込むかのような謎めいた笑みだった。初日に見たわざとらしい営業スマイルとも違う。
「冷静だなんてそんな……動揺していますよ? 顔に出ないだけで」
私も曖昧に微笑み返した。警戒心が芽生える。私が遊歩道にいるところをイガタさんはここからずっと見ていたのだろうか?
「おや、それは失礼いたしました。いずれにせよ、下から走ってこられたのでお疲れでしょう。お部屋でおくつろぎください。温かいお飲物をご用意いたしましょうか?」
笑顔は営業スマイルに切り替わった。
「いいえ……結構です」
私はその場を立ち去った。
エレベータの狭い空間の中でほっと一息を吐く。そうして、自分が今までずっと右手を握りしめたままだった事に気が付いた。ゆっくりと開いた掌。金色に光る指輪が乗っていた。
思い出はまだ捨て切れていない。
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