5齢

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5齢

 ジー……ジー……  どこかで虫が鳴いている。起き抜けのぼんやりした頭の中で、規則正しく煩わしい音が響く。  これはユメの鳴き声? でも、芋虫ってこんな声出したっけ?  だんだんと意識がはっきりしてくる。虫の鳴き声だと思ったのは、スマートフォンのバイブレーションだった。  着信。まだ朝の5時というのに誰だろう? 「……もしもし」  不機嫌な声で応答した。 [おはよう] 「……誰?」 [ひどいな、僕の声を忘れたの?]  あの人か、と思った。声の記憶なんてとっくにユメに食べ尽くされている。今更、思い出させないでほしい。 「日本はまだ早朝なの。起きちゃったじゃない」  ごめんごめん、と、謝罪の気持ちが少しもこもらない声が聞こえた。 [今、どこにいるの?] 「……旅行中。ホテルライフを楽しんでいるところ」 [それは結構だ。僕は4日後の夜に空港に着く] 「待って」  私はベッドサイドテーブルに載った手帳をめくった。間からヒラリと一枚のメモ用紙が滑り落ちる。 「5日後じゃなかったの?」  メモ用紙を眺めながら私は訊いた。 [予定が早まってね。……父を説得できたから、君を迎えに行く] 「説得……?」 [本当に寝ぼけているんだね。指輪の話だよ]  電話の向こうであの人がくすくす笑う。 「まさか……嘘でしょう?」  私は思わず聞き返した。婚約など許されるはずがない。 [嘘だと思うなら、4日後の夜、空港まで来てくれよ。すべてが分かるから」 「……」  彼は飛行機の到着予定時間を告げた。私は、言われるがままに、カイエダ君がくれたボールペンでメモ用紙に時間を書き留めた。 [それじゃあ、待ってるから。それまでは美しい海でも眺めてゆっくり過ごしていてくれ]  彼は一方的に言うと電話を切った。  私はスマートフォンに耳を押しつけたまま、メモ用紙をじっと眺める。元々は、ホテルをチェックアウトしてから空港に行くつもりだった。しかし、これではチェックアウトの前日に空港に行かなくてはならなくなる。 ――それはそれでしょうがない、か……  私はため息を吐いた。  それにしても私へのプロポーズに対して彼がここまで本気だったなんて思いもしなかった。気の迷い、あるいは、子供じみた恋愛ごっこ。そんな類のものだと思っていた。  心が揺らぐ。まだ引き返せるかもしれない。あの人のもとに戻れるかもしれない。あの人の国で、あの人と一緒に、新しい人生をもう一度……。  全てを忘れてしまう前に、私がユメから離れてしまえば、それは不可能ではないかもしれない。初日にサインした契約書類には、バイバイ・メモリイ・プランは、中途解約することができない旨が書かれていたはずだが、そんなものは理由をつければどうにでもなるだろう。  けれども、私は……。迷ってはいけないはずの心が揺れる。  私は起きあがってカーテンを開いた。朝焼けが空を染め、海は深い群青の眠りから次第に目を覚ますような明るさを宿している。  ネットに覆われたミヤマオモイデバラの枝の上では、早くもユメが動き出していた。昨日、最後の脱皮を終えたユメの体は、また一回り大きくなったばかりでなく、色も焦げ茶色から鮮やかな緑色に変わっていた。  餌の葉は足りているだろうか、と私は覗き込んだ。しかし、ユメはもう葉を食べてはいなかった。  ユメは上半身を何度もひねりながら、頭をぐるぐると大きく回している。  口から糸を出し、枝に体を固定しているのだ、と、事前にカイエダ君に教えてもらっていたことを思い出す。  生まれてから10日目の朝、ユメの蛹化が始まろうとしていた。
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