二つの国と二人の術師

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二つの国と二人の術師

「いやあ、ようやく着いたのう!」  歩きつめていたトレンスキーが眼下に広がる景色を見て歓声を上げた。  道中ずっと東に見えていたトーヴァ連峰が途切れ、音を立てて流れる川の先にはなだらかな平地と整然と植えられた木々が見えた。  振り返ったトレンスキーはアンティを手まねきすると、青々と並ぶ木々を指差して言う。 「見てみい、アンティ。このクレナ川を越えた向こうがエトラ領じゃ。あのきれいに並んだ木はな、全部リンゴの木なんじゃよ」  トレンスキーの言葉を聞き、アンティが金色の目を見開いた。 「そうなのですか?」 「ああ、この辺りのリンゴの蒸留酒は本当に美味くてな。早くイルルカの町に行きたいのう!」  楽しげに話す二人の後ろからラウエルが近づく。全員分の旅荷を背負っているが、招来獣(しょうらいじゅう)に疲れはないので表情は涼しいものだった。 「まだ目的地まで遠いのだ」  見下ろす景色に特に心動かされた様子もなく、ラウエルは普段と変わらない淡々とした口調で言った。 「はしゃいでないで、君たちはちゃんと休憩をとった方が良いと思うのだ」 「そうじゃな、ここで少し休んでいくか」  頷いたトレンスキーの横で、荷物を置いたラウエルがアンティに水筒を手渡す。 「ありがとうございます、ラウエルさん」  受け取ったアンティは薄くにじんだ汗を拭いながら水筒を傾けた。  その服はアレットで出会った時のものではなく、メルイーシャの古着市で買った子ども用の旅装束だ。頭には日差しよけの麦わら帽子をかぶっている。 「歩きづめで辛くはないのだ?」  ラウエルの問いにアンティは頷いて答えた。 「大丈夫です」 「ここからは日が強く差すようになる。不調を感じたらすぐに言うのだ」 「はい」  トレンスキーは二人の会話を鷹揚(おうよう)に聞いていたが、内心では旅慣れない子どもに対するラウエルの気配りに若干舌を巻いていた。 (……いかんのう、気を抜けばつい自分のことしか見えなくなる。ワシも師匠としてちゃんとアンティを見てやらねば)  気持ちも新たにトレンスキーはアンティを眺める。やや気張った視線に気づいたアンティが不思議そうな顔をした。 「どうしたのですか?」 「ああ、いや……」  首を振ったトレンスキーは、水筒を戻して荷物を背負い直したラウエルと自分を見上げるアンティに言った。 「今日は早めに宿を決めようかのう。部屋で落ち着いたら一緒にトフカ語のおさらいをしような、アンティ」  帽子越しにその頭を撫でると、アンティもぎこちない笑顔を浮かべて頷いた。 「はい、師匠(せんせい)」  トレンスキーがアンティと出会い、共に旅を始めてから数日。その間に、アンティは彼女のことをそう呼ぶようになっていた。 「何かを教えてくれる人は、師匠(せんせい)ですから」  アンティ自身、その呼び方がどこかしっくりくるようだった。  ということは、記憶を失う前にそのような人物がアンティの側にいたのだろうか。疑問は湧いたが、本人にも分からないことを聞いても仕方ないだろうとトレンスキーは追及しなかった。  代わりに、トレンスキーは四精術(しせいじゅつ)の基礎をアンティに教え始めていた。  トフカ語の読み書き、四色四晶(ししょくししょう)の石の区分と術の成り立ち、その歴史……。  新しいことを知るのは楽しいようで、アンティは旅の景色を眺める時と同様にきらきらとした目でトレンスキーの話に耳を傾けていた。  そんなアンティを見るたびに、トレンスキーはちくりと苦い思いを胸に抱えてしまうのだった。 「……この先に、村があるはずなのだ」  地図を広げたラウエルがトレンスキーを振り返って言う。 「ヒースという村なのだ。今日の宿はそこでいいのだ?」 「そうじゃな。ここから先は緩やかな下り道じゃ、気楽に進むとしよう」  中天にかかり始めた太陽を見上げてトレンスキーは頷いた。
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