二つの国と二人の術師

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「お湯の用意ができました、よろしければどうぞ」  若者がそう伝えにきた時、三人は円卓に顔を揃えてトフカ語の書き取りをしている最中だった。 「ああ、すまない。使わせてもらおう」 「場所は廊下をまっすぐ行って左側になります」  トレンスキーは頷くと、アンティに向かって声をかけた。 「アンティ、先に使わせてもらうと良い」 「はい、師匠(せんせい)」 「一人で大丈夫か、不安ならラウエルをついて行かせるが?」  アンティは金色の目をきょとんと瞬かせると、すぐにふるふると首を振った。 「大丈夫です、一人で入れます」  アンティが部屋から出ていくと、ラウエルが不思議そうにトレンスキーに尋ねた。 「心配ならば、君があれと一緒に風呂に入ってやれば良いのだ?」 「いやいや、ワシと入ったら問題すぎるじゃろう」 「そうなのだ?」 「ああ、いくら弟子とはいえ節度は保たねばな」  ラウエルはよく分からないといった面持ちだった。トレンスキーはそれを放置して円卓に残された紙を手に取る。  アンティの書くトフカ語はまだ(いびつ)だが、ここ数日でそれなりに上達していた。元々クウェン公用語の方は軽く学んだ形跡があり、文字を書くということ自体は初めてではなさそうだった。 「……全く、良い弟子を持ってしまったものじゃのう」  紙面に目を落としたトレンスキーの口から思わずそんな言葉がこぼれる。ラウエルが首をかしげた。 「何か問題なのだ?」 「別に問題などない、アンティは良い子じゃ。ただ……」  トレンスキーは大きなため息を吐いて机の上に突っ伏した。 「自分の不出来さをこんな形で見せつけられるとは思ってもいなかった、というだけの話じゃ。ワシ、本当に可愛げのない駄目な弟子じゃったからのう」  ラウエルはトレンスキーを見下ろすと、そっと右手を伸ばしてその頭に触れた。 「あれはあれなのだし、君は君なのだ」  トレンスキーが横目でラウエルを見た。金の髪をゆるゆると撫でながら、ラウエルは淡々とした声で告げる。 「私は、君もよく頑張っていると思うのだ」  それを聞いたトレンスキーはわずかに息をつまらせた。ラウエルの手を遮るといたたまれない様子で椅子を立つ。 「……時間も空いたことじゃし、改めてあの者に一言挨拶でもしてこようかのう」  それだけ言うと、ラウエルの返答を待たずに部屋を出た。  廊下を歩くと、すぐに厨房(ちゅうぼう)と思われる場所が見つかる。トレンスキーは厨房をのぞき込むと、そこにいた若者に声をかけた。 「……失礼する」 「あ、はい」  中央の調理台に目を落としていた若者が顔を上げた。慣れた様子で生地を()ねていた両手は真っ白に染まっている。 「何か必要なものでもありましたか?」 「ああ、いや、違うのじゃ」  急いで手を拭おうとした若者をトレンスキーが止める。アップルパイの生地を用意しているのだと知って申し訳なさに眉が下がった。 「連れが無理を言ってしまい大変申し訳ない。その、ワシに何かできることがあれば手伝うが?」  若者はきょとんとすると、すぐに笑って首を振った。 「いいえ、大丈夫ですよ。こうして動いていた方が気も紛れますし」  トレンスキーは調理台に伸ばされた生地を見て、それから栗色の髪の若者へと視線を移した。
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