対峙

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 気を落ち着けるように深く息を吸うと、トレンスキーは深紅の装束のポケットから透き通る黄褐色(おうかっしょく)の小石を取り出した。 『(すな)(しろ)(くず)れ、()めし(おも)いは(わす)()られる  其処(そこ)(のこ)るは、(ただ)(ゆめ)ばかり……』  トレンスキーの唇から低く緩やかなトフカ語が発せられる。  地精石(ちせいせき)が軽い音を立てて砕ける。同時に、目の前にあった岩壁が海辺の砂のようにさらりと崩れ、大きな空洞ができあがった。  そっと横穴をのぞき込んだトレンスキーがわずかに身震いする。 「……ずいぶんと冷たい風が通っておる」  耳を澄ませ招来獣(しょうらいじゅう)が近くにいないことを確認すると、トレンスキーはラウエルに位置を譲った。 「頼めるか、ラウエル?」 「心得たのだ」  頷いたラウエルはすぐに白鼠の姿に変わった。  開かれた暗闇の先へ白鼠は臆することなく進んでゆく。その小さな背中を見送ったアンティはトレンスキーに尋ねた。 「ラウエルさんに、何を頼んだのですか?」 「中の確認と探索じゃよ。人には歩けぬ暗闇も、あやつにはさしたる障害ではないし。それにあの姿は静かで小回りが利くからのう」  説明するトレンスキーの背後で、ゲルディークが小さく何かを呟いた。  クウェン公用語とも、トフカ語とも違う響き。アンティにその言葉を聞き取ることはできなかったが、トレンスキーは表情を険しくしてゲルディークを睨みつけた。  しばらく待っていると、やがてラウエルの戻ってくる音が暗闇の奥から響いてきた。  その足音は鼠ではなく人間のものだ。目を凝らし、ようやくその姿を視認したトレンスキーはさっと顔色を変えた。  ラウエルの両腕に抱えられていたのは人間の亡骸(なきがら)だった。  見たところ年の頃は二十歳前後か。ざっくりと裂かれた傷跡から流れたであろう血でその衣服は真っ黒に固まっていた。  ラウエルが亡骸をそっと地面に横たえる。襟元につけられた金色のバッチに触れて、若草色の目がわずかに細められた。 「……間に合わなかったか」  亡骸の側に屈みこんだトレンスキーは悔しげに唇を噛む。 「おい、待てよ……」  やや距離をおいてそれを見下ろしていたゲルディークが、ふと弾かれたように横穴へと視線を向けた。 「この音、招来獣はまだ残ってるのか?」 「奥にオオカミグマが一体。既にこちらに気づいているのだ」  聞いたゲルディークは大きく赤毛を搔きむしった。 「なのに悠長(ゆうちょう)にこんな死体(もの)を持ってきたのか、何考えてんだお前!?」 「あのまま置いておけば、亡骸が踏みつけられてしまう危険があったのだ」 「それでこいつらまで危険に晒してどうする!? 一体何のためにお前が……!」 「──来るぞ!」  トレンスキーが声を上げて横穴に対峙した。  獰猛(どうもう)な唸り声がすぐ近くから響いてくる。  重い足音を立てて姿を見せたのはラウエルの言った通りオオカミグマ、大柄な熊の体と狼の頭部を模した招来獣だった。 「アンティはラウエルの側に!」  鋭く言ったトレンスキーが横目でゲルディークを見やる。 「ゲルディーク、頼めるか!?」  ゲルディークは舌打ちをして懐を探る。焦茶の平たい種を取り出すと、その上に水精石(すいせいせき)のかけらを落としながらトフカ語で囁いた。 『朝露(あさつゆ)()う、(まみ)えの僥倖(ぎょうこう)──!』  ゲルディークはオオカミグマに向けて種を放つ。その手から離れると、それはすぐに(つる)を伸ばして巨大な体に巻きついた。  四肢を絞めつける(つた)にオオカミグマは怒声を上げる。黒い毛皮に覆われた腕が力任せに振り上げられると、ぎりりと嫌な音を立てて蔦が引き伸ばされた。 「嘘だろ、馬でも止める強度はあるんだぞ?」  わずかに狼狽(ろうばい)するゲルディークにトレンスキーが問う。 「もっと強度のあるものはないのか!?」 「数を増やせば何とか、……けど少し時間が欲しい!」  聞いたトレンスキーは眼前を鋭く見すえる。オオカミグマは今にも絡まる蔦を引きちぎりそうである。 「ラウエル、ワシらで何とか時間を──っ」  叫びかけたトレンスキーの脇を黒い影が駆け抜けた。  ナイフを(たずさ)えたアンティだった。
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