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今度こそ身動きを封じられたオオカミグマの側まで寄ると、トレンスキーは術師装束のポケットからゆっくりとガラス玉を取り出した。荒い息を飲み下すと、それを小さく真上に放る。
地面に落ちた瞬間、静寂を命じるような鈴の音色が辺りに響き渡った。気まぐれに吹く風さえも、梢を揺らす音を止めたようだった。
『──斯くも尊き四色四晶
世界拓きし十六の
力秘めたる深淵の
御座に坐す光王の大前に
謹み奉りて臼さく
地底に繋がれ征く方もなく
振るう腕すら遠のく果ての
哀の嘆願聞き届け給え
その門扉に触れる非礼を
寛き御心の元に、赦され給え──』
深く身を委ねたくなる抑揚と音律。怪我の気配など全く感じさせない余裕のあるトフカ語が染み渡るように広がってゆく。
茂みの側に座りこんだままそれを眺めていたアンティは、不意に強く胸元を押さえた。
「……あ、」
驚きに見開いた金色の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
伝う涙を拭うことも忘れ、アンティは傷を負ったトレンスキーの背中を見つめた。その膝に、白鼠に姿を変えたラウエルがそっと乗る。
ゲルディークは既にその場から離れ、乾いた地面の上に敷布と治療道具を広げているようだった。
「……ラウエルさん。あれは、何ですか?」
アンティは声につまりながら白鼠に目を落とした。
「この気持ちは、何でしょうか? とても暖かくて、安心して、懐かしいような……」
「君にも、そう感じるのだ?」
白鼠はアンティを見上げて小さく首をかしげた。
「あれは招来獣を”還す”ための詠なのだ」
「かえす、うた……?」
白鼠は若草色の瞳をトレンスキーへと向ける。
「……本来であれば、四精石のはたらきで半永久的に動く招来獣は、核を砕くことでしか消滅させることができない。それは死と同義なのだ」
しかし、と白鼠は長いヒゲを揺らす。
「原理は不明なのだが、あれは何故か四精石も使わず、トフカ語だけで裏面界とこちらを繋ぐことができるのだ。おそらくこの世界において、あれにしかできない技なのだ」
「師匠にだけ、どうして……?」
「私も尋ねたことがあるのだが、あれは答えてくれなかったのだ」
見つめる一人と一匹の前方で、トレンスキーが軽く両腕を広げた。
裂けた装束と血に染まる背中。アンティの位置からでは彼女の表情まで見ることはできない。ただ普段とは異なる雰囲気と、空気の揺らぐ気配が伝わるだけだった。
『……帰りたいのだろう?』
トレンスキーがトフカ語で語りかける。声は普段と変わらないのに、まるで別人のような語り口で。
『創られ、追われ、辛い日々を送ったことだろう。頼れる者も姿を消し、独り世界に放り出されて……』
トレンスキーが一歩進む。細く声を上げるオオカミグマに近づくと、臆することなくその巨体に優しく触れた。
『道は拓かれた、──君は”還れる”』
トレンスキーの抱擁に、オオカミグマの姿がゆらりと溶けて消えてゆく。同時にその身体を構成していた四精石がささやかな音を立てて草の上に散らばった。
腕を下ろしたトレンスキーがゆっくりと振り返った。
普段とは違う光を湛えた薄青色の瞳が、アンティの膝にいた白鼠を眺める。
トレンスキーは小さく首をかしげた。
『君はまだ、”還ら”なくても良いのかい?』
白鼠は答えない。
トレンスキーは鷹揚に頷くと、その視線を上げてやや不思議そうな顔をした。
『……君は』
ゆるりとした歩みでトレンスキーがアンティの側まで寄る。白鼠が逃げるようにアンティの膝から離れた。
ほつれた金の髪を揺らしながら静かに膝を折ると、トレンスキーは篭手をつけた右手で涙の跡が残るアンティの頬に触れた。
『君は、そちらのものだね?』
「……あなた、は。誰、ですか……?」
目を見開いたアンティが上ずったクウェン語で問いかけると、トレンスキーはくすりと笑った。
『……君には”私”の名残がある。君を”還す”ことはできないけれど、そちらでの君の多幸を願っているよ』
それだけ告げると、薄青色の瞳が静かに閉ざされた。
赤い術師装束が揺れる。
意識を失ったトレンスキーがアンティにもたれかかるように倒れ込んだ。
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