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村長の家から出たエミリオはまず、村の端にある墓地を訪れて埋葬された術師の冥福を祈った。それから、オレンジ色の屋根をした宿へゆっくりと足を向けた。
そこにいたのはまだ少年と呼べそうな年齢の若者だった。
エミリオは人好きのする笑顔で挨拶をすると、宿に泊まっていった者たちの話を若者に尋ねた。
「その、お名前は聞いてないんです」
リオという名の若者は困ったような顔をしたが、エミリオが付ける金のバッチに目をやると考えながら当時の様子を話し出した。
「不思議な赤い服の女性と、黒い髪の子と。それから、背が高くて白い髪の男性の三人でこの宿に泊まられて……」
「その男性が、招来術師をここまで運んできたんですよね?」
「はい」
エミリオは身を乗りだして質問を重ねた。
「その時の男性について、もっと詳しく教えてくれませんか? どんな些細なことでも構いません」
リオは眉を寄せてうつむくと、やがて小さな声で言った。
「……アップルパイが、美味しかったと」
「アップルパイ?」
エミリオの目がきょとんと開かれた。リオが頷く。
「その人、去り際にそう言ったんです。また宿の名物になるといいって」
リオは三人を宿に泊めた際、白い男が季節外れのアップルパイを所望したことと、それに応えたことを説明した。
「……僕は、あの人たちが救世主でもそうでなくても、どちらでもいいんです。危険な山に入って、招来術師のあの人を見つけてくれただけでも、本当にありがたいことですから」
エミリオはそれを聞くと考え込むように押し黙った。
しばらくしてゆっくりと、確認するようにリオに尋ねた。
「その男性って、声や表情は少し平坦なかんじで、目の色は綺麗な緑色をしてはいませんでしたか?」
エミリオを見上げる薄茶の瞳が驚いたように見開かれた。
「そうです。どうして分かったんですか?」
エミリオは答えず、笑顔で礼を言うと宿を後にした。
村から出たエミリオは、黒猫と共に一日かけて北の山を確認した。
丹念に探ったものの、山には招来獣の姿も気配もない。ただ、山中にある横穴付近で、何者かが獣と争ったような形跡が確認できただけだった。
エミリオと黒猫は無言で来た道を、緩やかな坂道を遡った。クレナ川に架かる橋を越えてメルイーシャ領へ渡る頃には日もすっかり暮れ、薄闇の中に星々が瞬きだしていた。
エミリオは登り坂で上がった息を整えると一本の木の側に座り込んだ。そのまま物思いにふけるように深くうつむく。
黒猫は長い尾を伸ばして道の先を散策したり、橋のたもとで流れる水音を聴いたりしていた。それが一段落すると、同じ姿勢のまま動こうとしないエミリオの前まで軽やかな足取りで戻ってくる。
黒猫がエミリオの膝に前脚をかけた。
エミリオが黒猫へと視線を向ける。
「……フィル」
左耳の飾りを傾けた黒猫はガラス玉のような目でエミリオを見つめている。
エミリオは困ったような顔で笑った。
「見つけちゃいましたね、手がかり……」
軽く右手を差し伸べると、黒猫は嬉しそうに何度も頭を擦りつけた。その様子を眺めたエミリオは小さく息を吐いて空を見上げた。
「……トビア様に提出する報告書、どこまで書こうかな?」
輝く星々が見下す中、ぽつりと呟かれたエミリオの言葉に答える者は誰もいなかった。
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