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「生活の、足し……」
カップを手に取ろうとしたアンティはその言葉にリタを見上げた。
「大変、なんですか?」
「そりゃあ楽じゃないわ。だって宿屋なのに、泊まってくれるお客さんが全然来なくなっちゃったんだもの。初めの一、二年なんて本当に大変だったのよ」
顔をしかめて言ったリタは、アンティの表情を見るとすぐに安心させるような笑みを見せた。
「大丈夫よ。なんたってうちには金払いの良いお得意様がいるんだから」
「それは、師匠のことですか?」
「うん。最初は私の命の恩人だったけど、今はうちの宿の恩人でもあるのよね」
アンティの向かいに座ったリタは、小さく咳払いをすると両手の指を組み合わせながらぽつりと言った。
「……ねえ、アンティ。ラウエルさんの好きな食べ物、アップルパイ以外で何か知ってる?」
「え?」
アンティはカップに落としていた目を上げる。
「甘いものだったら何でも好き、……ってわけじゃないわよね。お料理を出した時とかいっつも反応薄いんだけど、何を出したら喜んでくれると思う?」
橙の瞳が期待するような視線を向けている。それを受けたアンティは困ったように首をかしげて言った。
「分かりません」
「……そっかあ」
リタはがっくりと肩を落とした。
「まあ、そうよね。アンティだってエルたちと会ったばっかりなんだもんね」
エル、というのはトレンスキーのことである。
アンティはイルルカに来た初めの頃、どうして師匠のことをエルと呼ぶのですか、とリタに尋ねたことがあった。
「だって、命の恩人のこと、あんな変な名前で呼べないじゃない」
その時のリタは、声をひそめてアンティにそう答えたのだった。
「ラウエルさんの好きなものなら、師匠に聞いてみたら分かるかもしれません。聞いてみましょうか?」
「え、い、いいのいいのっ!」
アンティが言うと、リタは慌てたように手を振った。
「ちょっと気になっただけだから。今の話、絶対にエルたちには内緒にしておいて!」
「どうしてですか?」
アンティはきょとんとした。澄んだ金色の瞳がリタを見つめる。
リタは困ったようにぱくぱくと口を動かすと、やがてうつむきながら小さく呟いた。
「……だって、狙ってるみたいに誤解されたら嫌だもの」
「ねらう?」
「エルとラウエルさん、恋人同士でしょ?」
アンティは金色の目を丸くした。
「そう、なのですか?」
「だってすごく親密だし、危険な旅でもずっと一緒にいるのよ。お互いに好き合ってなかったらそんなことできないじゃない」
早口でまくし立てるように言うと、リタは小さくため息を吐いた。
「私だって二人がお似合いなのは分かってるし。エルも大事な友達だから、そこに割り込んで邪魔をしたいわけじゃないの。……面倒な子だなって思われて、この町に二度と来てくれなくなっても嫌だし」
だから内緒にしておいて、と固い面持ちでリタは告げる。アンティは不思議なものを見るような目でリタを眺めた。
そこへ、噂の主であるトレンスキーが姿を現した。
「おはよう、二人とも」
気だるげな声と共に食堂へ入ってきたトレンスキーは柔らかな萌黄色の服を着ていた。宿に来てすぐに、リタが外出着の中から貸したものだ。トレンスキーの方が上背があるので袖やスカートの丈はやや短い。いつもは結っている金の髪も下ろしたままだった。
「おはよう、エル」
ぱっと顔を上げたリタが明るい声色でトレンスキーと挨拶を交わす。
「やだ、その顔。また夜ふかししてたんでしょ?」
「ああ、ちょっと四精石の選り分けと調合をしておってのう。気づいたらあっという間に夜が明けていた。……食事の準備をするならワシも手伝うぞ」
「ありがと。じゃあ、みんなでお昼の用意をしましょうか」
リタは立ち上がると、大きく三つ編みを揺らしながら厨房へと向かった。
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