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静まり返った食堂に、ふと笑いを含んだ声が響いた。
「……ずいぶんと必死だねぇ」
全員の視線が扉へと向く。
そこにいたのは一人の男だった。
縦枠にもたれるようにして立つやや猫背の姿。くすんだ色の赤髪や衣服はやや身ぎれいに整えられ、潰れた右目を隠すためかその顔には薄い黒色の遮光眼鏡がかけられている。
「あなたは……」
その姿を認めた途端、リタは苦いものを飲んだかのように顔を歪ませた。
入口近くに置かれた深紅の装束を一瞥すると、ゲルディークは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「まあ、恋しい人には側にいてもらいたいってのが乙女心だよな。……たとえ想いが届かなくたってさ」
リタの表情が強ばる。その横でトレンスキーが問いかけた。
「お主が来るとは聞いておらんぞ。一体何の用じゃ?」
ゲルディークはふふんと鼻をならすと食堂内に足を踏み入れた。
トレンスキーの側にいたリタが飛びのくようにゲルディークから離れる。警戒心に満ちた表情は毛を逆立てた猫のようだった。ゲルディークは気にする様子もなくトレンスキーの背後に立つと、金糸のような髪を見下ろした。
「髪、何で今日は下ろしたままなんだ? まだ腕が痛む?」
からかうような声に、トレンスキーはぶっきらぼうに答える。
「そんなの、いちいちお主に説明せんでもよかろう」
「おおかた面倒くさかったんだろ、よかったら俺が結ってやろうか?」
「結構じゃ」
「残念、けっこう得意なんだけどな」
トレンスキーは苛立たしげにカップを置く。右手を椅子の背にかけると、トレンスキーは身体をひねってゲルディークを見上げた。
「もう一度聞く。お主、何をしに来た?」
低い声とじとりとした視線に、ゲルディークは笑いをこらえながら半歩身を引いた。
「実際のところさ、もう傷は大丈夫なんだろ?」
「経過を診てきたのはお主じゃろうに、……この通りじゃよ」
トレンスキーは左腕を伸ばすと軽く肩を回して見せる。ゲルディークはそれを確認すると、懐から取り出した一枚の紙片をトレンスキーに差し出した。
「これ、俺の泊まってる宿。今夜来いよ」
「な……っ!」
聞いていたリタが小さく声を上げた。卓の向かいに座るアンティはきょとんと目を丸くしながら、ラウエルは淡々とした眼差しで二人の様子を眺める。
「……お主、それを言うためだけにわざわざ来たのか?」
苦虫を噛み潰した表情のトレンスキーをゲルディークは笑って見下ろす。
「お前のその、可愛らしくて最高に似合ってない服も見納めだと思ったからさ」
「呆れる程の暇人じゃのう。……これで用は済んだな?」
言って、トレンスキーは目の前に掲げられた紙片を受け取った。ゲルディークは満足げに頷く。
「じゃあ、俺はこれで」
離れた先できりりと睨みつけてくるリタの視線に気づくと、ゲルディークは小さく肩をすくめて食堂を去っていった。
ゲルディークの姿が食堂から見えなくなると、リタは腹立たしげに呟いた。
「……私、あの人嫌いよ」
「リタ?」
その顔は怒りのせいか血の気が上がっている。悔しげに唇を噛んだリタは傍観していたアンティとラウエルに視線をやった。
「いつも来るたびにラウエルさんたちのことを無視して、エルにべたべた付きまとって。嫌なことばっかり言って周りをかき回したりして……!」
そこまで言ったリタはトレンスキーの持つ紙片を見てぎゅっと眉根を寄せた。
「エル、浮気なんてしたらダメだからね! 今いる場所を大切にしないと絶対に後悔するんだから!」
「うわき?」
トレンスキーは薄青色の目を大きく開く。手元の紙を見てすぐにああと頷くと、安心させるようにリタに笑いかけた。
「心配せずとも宿を替える気はないぞ。ワシらがイルルカで泊まるのはお主らの宿だけじゃ」
「そ、そうじゃなくてっ!」
がくりと肩を落とすリタを脇目にトレンスキーは椅子から立ち上がった。
「やれやれ、とんだ来客のせいで食後の気分は台無しじゃが。……気を取り直して午後の勉強でも始めるかのう、アンティ?」
「は、はい、師匠」
「んもう、エルったら……!」
当たり散らすような声を背中に聞きながら、三人は足早に廊下へと出たのだった。
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