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「……まったく、ゲルディークにも困ったものじゃのう」
二つの包みを抱えたトレンスキーは階段を上がりながらため息を吐いた。
「いつも明るいリタの天敵ではないか。そのくせ、何故だか知らんが我が物顔で宿に出入りしよって」
「あれが宿に出入りするのは君の治療のためだったのだ」
ラウエルが淡々と告げるとトレンスキーはがっくりと肩を落とした。
「あー、では半分はワシのせいかのう……?」
階段を上がると客室の並ぶ廊下が続く。すぐ右手に見える扉がトレンスキーの使う部屋、その隣にある角部屋がラウエルとアンティの部屋である。どちらもやや広めの二人部屋で、今はそれ以外に宿泊客はいなかった。
「今夜あれの元に出かけるのなら、あの父娘に見つからないように出た方が良いのだ」
「そのようじゃのう」
トレンスキーは軽く階下に目をやった後でラウエルに包みの片方を手渡した。
「着替えたらワシもそちらに行く、待っておってくれ」
「心得たのだ」
下ろした金の髪を揺らしながらトレンスキーが自室へと消えてゆく。それを見届けた二人は隣の部屋の扉を開いた。
部屋の窓は夏の熱気を散らすために大きく開かれている。ゆるく揺れる薄手のカーテンが流れるような影を床に映していた。
ラウエルは真っ直ぐに部屋を横切ると、窓際の卓の上にトレンスキーから渡された包みを置いた。かつん、と鳴る金属音がアンティの耳に届いた。
「……ラウエルさん」
部屋に入ったアンティが小さな声でラウエルを呼ぶ。振り返ったラウエルはアンティの側まで寄るとそっと膝を折った。
「どうかしたのだ?」
見上げるほどに背の高いラウエルは、アンティだけと話す時はいつもその目に視線を合わせてくれる。それはアンティに穏やかな安心感を与えていた。
「ゲルディさんは、師匠のことが好きなのですか?」
「あれは好きでもない人間を助けたりする男ではないと思うのだ」
ラウエルの答えは明快で、アンティはおおいに納得する。
「では、ラウエルさんと師匠は?」
続いた言葉に、若草色の目がきょとんと見開かれた。
「私、なのだ?」
「はい。恋人同士ではないですよね?」
それは、リタの言葉を聞いた時からずっと気になっていたことだった。ラウエルを真っ直ぐに見る瞳には、純粋な疑問の色が浮かんでいる。
「では、どうしてラウエルさんは師匠と一緒に旅をしているのですか? 師匠のことが好きだからですか? それとも招来獣だからですか?」
ラウエルは一度目を閉じると、アンティからわずかに視線を逸らした。
「私が招来獣であるから、あれを主人と認めて従っているのかと問われれば、答えは否なのだ。私にとって、我が主は今でも、……いつでもただ一人だけなのだ」
「では、その人は? 今どこにいるのですか?」
吹き抜ける風が部屋の中まで届く。
ラウエルは揺れるカーテンの陰影を眺めながら佇んでいる。再び口を開くまで、しばしの間があった。
「……我が主の名は、シウル・フィーリス・イル・メルイーシャというのだ。我が主は……」
視線を上げたラウエルは若草色の目を見開いた。
アンティの目から、一筋の涙が伝っていたのだ。
「……もう、会えないのですね」
胸元を押さえながら、アンティはひくりと喉を鳴らして言った。
「つらく、悲しい。けれど、……とても暖かい。とても大切にしてもらった、とても大切な人……」
「君は……」
ラウエルがやや戸惑った声を上げた。しかし続く言葉を発する前に、明るく乾いたノックの音が部屋内に響き渡った。
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