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「え、と、ええと……」
トレンスキーは薄青色の瞳に強い焦りを浮かべた。
師匠として、弟子の迷いにどう答えてやるのが正解なのか?
何と声をかければ、目の前のアンティを安心させてやれるのだろうか?
そんな重大な判断をこの場で下さなければならない。それは今まで生きてきた中で感じたことのない類いの重圧だった。キツネモドキの群れに単身立ち向かう方がまだ簡単だと思うほどだった。
「だっ、大丈夫じゃ、アンティ!」
迷った末に、トレンスキーはアンティの両肩に手を置いて言った。
「お主はもう空白ではない、ワシの弟子のアンティ・アレットじゃ!」
アンティが目を見開いてトレンスキーを見た。 その拍子に、目元に残っていた涙が左目から一粒こぼれる。
「今のお主にはワシとラウエルがおる。ワシらと過ごす記憶だって、これからどんどん増えてゆく」
「師匠……」
「今言ってくれたように、お主は自分の気持ちや願望だってちゃんと持っておる。それを大切にしておれば、いずれ招来獣たちの敵意を自分の感情とはき違えることもなくなるはずじゃ、きっと」
一息に言ったトレンスキーはアンティの顔をそっとうかがった。ぽかんとしているアンティを見て、おずおずと手を伸ばしその頬に触れる。
「その、大丈夫じゃ。お主を置いてなどゆかぬ。……お主を不安にさせぬようにワシも頑張るからな、そんなに思いつめんでくれ」
聞いたアンティは顔をくしゃくしゃにしながらうつむいた。
「は、はい、師匠……」
涙を拭うアンティをトレンスキーがよしよしといたわる。それを無言で眺めていたラウエルが小さく言った。
「口下手な君にしては、上手く伝えられた方だと思うのだ」
「……いや。何というか、お主にそれを言われると微妙に腹が立つのう」
「何故なのだ?」
不思議そうに首をかしげるラウエルをトレンスキーは呆れた目で見やる。その視線が窓際に置かれた包みに留まると、思い出したように声を上げた。
「そうじゃアンティ、これを見てくれ」
立ち上がり卓に寄ったトレンスキーが包みを開く。後ろから近づいたアンティはその中身を見て泣き腫らした目を丸くした。
卓上に広げられたのは一着の術師装束だった。
丈はトレンスキーのものよりも短く、基調となる色は黒だった。トレンスキーの装束と意匠はやや違うが素材は同じもののようで、その横には革製の剣帯と鞘に納められた一振りの短剣がある。
「師匠、これは?」
装束の横に四色の小さな布の包み、選り分けられた四精石のかけらを置いたトレンスキーはやや照れた顔でアンティを振り返った。
「その、ワシの服のついでに用意していたのじゃ。ラウエルに頼んでな」
「イルルカに着いてすぐに採寸をしたのを覚えているのだ? あれはこのためだったのだ」
頷くラウエルから黒い術師装束へとアンティが視線を移す。
装束に寄ったアンティがそっと手を伸ばした。密度のあるつやつやとした生地の手触りと、留め具に使われた地精石の穏やかな冷たさが手のひらに伝わる。
アンティはトレンスキーを見上げた。その隣には近づいて共に装束を眺めるラウエルの姿もある。
「きっとお主に似合うはずじゃ。だから、次に旅に出る時はこの服に袖を通してくれるか、アンティ?」
結った髪を傾けてトレンスキーが笑いかける。
アンティは眩しいものを見るように金色の目を細めた。やがてしっかりと、トレンスキーに向かって強く頷いた。
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