考察と機会

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 夜闇と静けさが辺りを包みこんだ頃、術師装束の上に灰茶の外套(がいとう)を重ねたトレンスキーは白山羊と共に川辺を離れた。次の朝日が訪れる前に、奇襲に一番適した位置を探すためだ。  馬よりも軽い蹄の音を立てながら白山羊がゆるりと夜の平地を駆ける。 「……お主、もしかして怒っておったのか?」  白山羊が足を止めた時、背に跨るトレンスキーが小さく問いかけた。 「何のことなのだ?」 「ゲルディークに対してじゃ。その、……シウル殿のことで」  白山羊の耳がぱたりと動く。 「別に怒ってはいないのだ」 「本当か?」  淡々とした声からは言葉の真偽が分からない。戸惑うトレンスキーに白山羊は言葉を重ねた。 「あれの言うことも事実であるとは理解しているし、我が主もそれを理解した上で戦闘用招来獣(しょうらいじゅう)を創ったのだ」 「そう、なのか?」 「流す血も、恨みの声も、招来獣(あれら)が受ける非難の責任は全て自分にあるのだと。あれらを戦へ送り出す時に、我が主はそう言っていたのだ」  聞いたトレンスキーは痛みをこらえるように目を細めた。 「……シウル殿はそこまで覚悟を決めておったのか。ワシとはえらい違いじゃな」 「君とは、というと?」  淡い月を見上げながら、白山羊の背に乗るトレンスキーは自嘲(じちょう)するように口の端を上げた。 「昼間な、サリエートがワシを見ていたのじゃ。氷に包まれた野を見渡して、あやつはワシを見た。その目に『何が変わらない?』と問われたような気がしたのじゃ」  白山羊の角から手を離したトレンスキーは右腕に目を落とす。月明かりを受けて、鈍色(にびいろ)の篭手は淡い輝きを反射していた。 「……どちらも同じじゃ。何も変わらない。望まぬ力を与えられた人殺しでしかない」 「私は、君とあれとは違うと思うのだ」  白山羊が言ったがトレンスキーは無言だった。答えが返ってこないことを知ると、白山羊は再び地面を蹴って進み出した。  やがて白山羊は野に生える一本の木に身を寄せた。遮るものが少なく、これ以上は近づけそうにない。しかし朝日が差せば最も早くアーシャ湖を目指せる距離だ。 「……久々じゃのう。お主とこうして夜中に移動するのは」  白山羊から下り、体を伸ばしながら夜の空気を吸い込んだトレンスキーが思い出したように言った。 「あの時、アンティと出会ってなければ。たしかワシらはアーフェンレイトまで行く予定じゃったな?」 「あの地は、以前訪れた時も招来獣が多く残っていたのだ」  トレンスキーは懐かしそうに笑うと、四肢を折った白山羊の隣に座り込んだ。 「ゲルディークと初めて会った頃じゃから、二年前か」 「あの時はカルア・マグダの騎士らしき者が襲われていたのだ」 「ああ、覚えておるぞ。ワシとお主で助けに入ったらずいぶんと驚いた顔をしていたのう」  月明かりに照らされた星空の下、座りこんだ一人と一頭はアーシャ湖を眺めながらぽつりぽつりと話を続けた。  会話が途切れると、トレンスキーはそっと白山羊の首に両腕を回した。 「最近は、毎日が賑やかでとんと忘れておったが」  温かい毛並みに自分の額を押しつけながら、トレンスキーは小さく呟く。 「……二人だけの旅とは、こんなにも静かなものじゃったか?」  白山羊が不思議そうに尋ねた。 「君は、もしかして心細いのだ?」  答えるかわりに、トレンスキーは白山羊の毛皮に強く顔をうずめる。白山羊はそれを見て若草色の目を静かに閉ざした。  月がようやくトーヴァ連峰の向こうへ隠れた。入れ替わるように東の果てがだんだんと白みはじめ、辺りの輪郭を少しずつ明らかにしてゆく。  夜明けは近かった。 「……そろそろじゃな」  固い声で告げたトレンスキーの横で、不意に白山羊がむくりと立ち上がった。その視線が平地の先に向く。 「何か、近づいてくるのだ」  大きく耳を揺らす白山羊の側で、立ち上がったトレンスキーも鋭く周囲を見渡した。 「敵か?」 「いや、違うのだ。これは……」  白山羊は戸惑った様子だった。やがて、トレンスキーもその姿を認めて大きく目を見開いた。  薄明に照らし出された大地の先に、こちらに向かって駆けてくる姿が見えた。日に焼けた肌に、帽子を乗せた短い黒髪。黒の術師装束を身につけた小柄な姿は──。 「……アンティ?」  トレンスキーはぽかんとその名を呟いた。
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