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はっと顔色を変えたトレンスキーが弾かれたようにアンティの側へ走り寄る。
「アンティ、どうしたのじゃ!?」
合流した途端、アンティは膝をついて激しく息を切らせた。その背中をさすりながらトレンスキーは尋ねる。
「ゲルディークに何かあったか、それとも……」
「せ、師匠」
アンティが息を整えながらトレンスキーを見上げる。その右手には薄紅色をした一本の花が握られていた。
乱れた髪、汗にまみれた顔、全力で走った後の苦しげな表情。その中で、金色の瞳だけは普段以上の輝きを放っていた。
「僕にも、手伝わせてください」
「な、何じゃと……?」
アンティは握っていた花を装束の襟元にはさむと、ポケットから小さな革袋と、澄んだ色で輝く水精石の結晶を取り出した。
「ゲルディさんから預かってきました。蔦の花の種です」
「何……?」
「師匠へ言伝です。これを使えばサリエートを”還せる”はずだと」
トレンスキーが息をのんで受け取った包みを眺めた。その後ろで、人の姿に戻ったラウエルが首をかしげてアンティに尋ねる。
「あれは、もう大丈夫なのだ?」
「はい。自分は結界を張るから平気だと言っていました」
「なるほどなのだ」
会話を交わす二人の間で、真剣な面持ちで考えを巡らせていたトレンスキーがうなるように息を吐いた。
「……サリエートごと、招来獣を全て蔦に巻き込む。言うのは易しいが実際に行うのは難しいぞ。時機を上手く読まねばならぬし、そもそも術を使うためには距離的にも十分な余裕がなければ」
「僕とラウエルさんが行きます」
言ってアンティが立ち上がった。
既に決めていたような迷いのない言葉だった。
「僕たちが招来獣を引きつけながら種を撒きます。師匠は遠くから、頃合いを見て四精術を使ってください」
「お主らを囮にするというのか?」
トレンスキーは顔を強ばらせると強く首を振った。
「そんなことはできぬ。危険すぎる。それにほれ、お主にはサリエートの声のこともあるのじゃし……」
「師匠」
アンティはゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕は、大丈夫です」
緩やかな風が平地を吹き抜けた。
東の地平からは既に太陽が昇り始めている。その光を横顔に受けながらアンティはトレンスキーを見つめた。
「ラウエルさんなら、招来獣の攻撃は絶対に避けられます。僕たちが時間を稼げば、師匠は必ず四精術を成功させてくれます。僕はそう思います」
トレンスキーが言葉を発する前に、アンティはアーシャ湖へと視線を向けた。
漂う靄はその一瞬、白ではなかった。夜明けの薄青や朝日の黄色、山辺の緑を溶け込ませた鮮やかな色合いをしていた。
その眺めを見て、アンティはぽつりと言った。
「師匠、サリエートは悲しんでいます」
「何じゃと?」
「ここを動かないのは、これ以上どうすることもできないからです。片割れを失った寂しさに、どこに行くことも、帰ることもできないのです」
アンティが胸を押さえた。トレンスキーは薄青色の目を見開く。
「お主、あやつの気持ちに……」
アンティは小さく微笑んでトレンスキーを見た。その顔は、今まで見せたどの表情よりも柔らかく優しかった。
「オオカミグマは、師匠に感謝していました。救われたと思っていました。前に師匠が言っていた”救い”の意味を、僕はそれで知ることができました」
アンティがトレンスキーに向かって、そっと右手を差し出した。
「だから、僕もそんな師匠のことを助けたい。師匠のお手伝いをさせてほしいです」
トレンスキーは呆然とアンティを見つめた。
出会った当初は無口で、周りを見上げるばかりの子どもだった。日々成長しているとは言ったが、それでもまだ庇護が必要な存在だと心のどこかで思っていた。
それがいつの間に、自分の思いをこんなにもはっきりと自身の言葉で話せるようになっていたのだろう。
「サリエートを”還し”ましょう、僕たちみんなの力を使って」
目の前にある金色の瞳は揺るぎなかった。
トレンスキーは戸惑ったように隣を見る。側に立つラウエルの様子は普段と変わらないが、トレンスキーを見下ろすとほんのわずかに頷いたようだった。
もう一度ゲルディークから託された包みに目を落とすと、トレンスキーは静かに目を瞑った。
「……頼っても、良いのじゃろうか?」
「僕は師匠の弟子です。頼ってください」
顔を上げたトレンスキーはアンティの手をそっと両手で握った。左手に感じる素手のぬくもりは小さくも頼もしい。深く息を吸い込んだ後で、トレンスキーは心を決めたように頷いた。
「……ワシら全員でサリエートを”還す”。お主も手を貸してくれ、アンティ」
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