決行の朝

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決行の朝

 次第に伸びる日の光がトーヴァの山肌を染めてゆく。  温められた空気は鮮やかな緑の匂いを含んで広がる。それは凍りついた湖上の(もや)を揺らめかせ、冷ややかな空気と混ざり合い、夏とも冬ともつかない香りを漂わせていた。  四精術(しせいじゅつ)が作り上げた氷の大地は半日以上過ぎてゆるやかに溶けだしていた。残る薄氷の下からは水に浸された夏草がのぞく。周辺の地面は大きくぬかるみ、雨上がりとはまた違った、雪解けの湿地のような様相になっていた。  その上を、真っ直ぐに白い姿が駆け抜けてゆく。  大きな巻き角を備えた白山羊だった。ぬかるむ足場にも跳ねる泥にもその脚は鈍ることがない。背中には巻き角にしがみつくように一人の人間が乗っていた。  帽子からこぼれる黒い毛先と、短剣を腰に()いた黒い術師装束。口元は固く引き結ばれ、金色の瞳は真っ直ぐにアーシャ湖を見据えている。 「招来獣(しょうらいじゅう)たちが気づいたようなのだ」  脚を緩めることなく白山羊が告げる。アーシャ湖の方角から四つ足の獣たちの影が見えた。空を飛ぶツバサヘビの姿がないのは、昨日ゲルディークの茨が全て仕留めてしまったせいだろう。 「予定通り、あれらを全て湖上まで引きつけるのだ」  白山羊が普段と変わらぬ抑揚でアンティに声をかける。 「追いつかれる心配はしなくていい、君は私の背から落ちないようにだけ気をつけるのだ」  小さく顎を引いて頷いたアンティは、左手を角から離すと短剣を鞘ごと外して利き手に持ち替えた。その首からはゲルディークから預かった革の袋が揺れる。 「──お願いします、ラウエルさん!」  白山羊が着地する瞬間、アンティは鋭く言った。  牙を見せて迫る招来獣たちを踊るようにかわして白山羊は進む。しつこいものはアンティが短剣を振って払った。ぬかるむ大地から霜の降りる地面へ、さらには厚く凍りついた湖面へと白山羊の蹄が踏み上げてゆく。  ひやりとした空気が全身に押し寄せた。白にまかれて視界は急激に狭くなり、周囲からは獣の唸り声が反響するように聞こえてきた。 「サリエートは?」 「まだ姿を見せていないのだ」  白山羊は視界の悪い氷の上を他の追随を許さない軌道で駆け抜ける。追ってくる招来獣を全て引き離すと、アンティは短剣を白山羊の角に重ねて握り、空いた手で革袋から(つた)の花の種を掴んだ。 「種を撒きます、場所の記憶を!」 「心得たのだ」  アンティが氷の上に種を落としてゆく。白山羊の背に揺れる息は弾み、顔を打つ風にその頬は紅潮していた。  袋の中身をあらかた落とした時、水笛のような音色と共に周囲の靄が散らされた。冷えた風から目を庇ったアンティに白山羊が短く告げる。 「サリエートが現れたのだ」  晴れた氷の上に巨大な影が踊った。その本体は青空の中からこちらを狙っている。一度サリエートを見上げた白山羊が跳ねるように身を翻した。 「……あとは、あれの放つ術次第なのだ。もう少しだけ持ちこたえるのだ」  白山羊の言葉に、白い息を吐き出しながらアンティが大きく頷いた。 「はいっ!」
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