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一人と一頭が湖上で立ち回りを演じる間、灰茶の外套を頭から被ったトレンスキーはぬかるむ地面を越えて湖の岸辺まで近づいていた。さくりと霜を踏みしめ、息をひそめながら湖をうかがう。
白山羊が派手な動きで気を引いているおかげでこちらに目を向けるものはいない。気を落ち着けるようにトレンスキーが呼吸を整える。吐いた息が白く消えてゆくのを、薄青色の目が静かに見送った。
不思議と、昨日まで強く感じていた身体の寒気が和らいでいるのを感じた。湖の様子が変わったようには見えない。なら原因は、自分の心の持ちようが変わったせいなのだろう。
思えばこんなにも穏やかな気持ちで招来獣の帰還に臨むのは初めてのことかもしれなかった。それも、対峙するのは”白のサリエート”だというのに、だ。
アンティとラウエルを危険に遭わせていることに不安はある。安全圏から見ているだけの状態に申し訳なさも感じていた。
しかし、それ以上に二人から向けられた気持ちが強く胸に沁みた。目を背け、隠し続けていた空白がほんの少しだけ埋められた心地がしたのだ。
トレンスキーの視線がふと、鈍色の篭手に握られた青の結晶に落ちる。
アンティから手渡された時にすぐに気づいた。水精石第一晶──”孤高”。それはイルルカの宿でゲルディークに報酬として支払ったはずの石だった。
「……お主も案外、お人好しじゃのう」
本人に言えば絶対に嫌そうな顔をされるだろうが。苦笑したトレンスキーはそっと水精石を握りこんだ。きぃんと高い音を立てて篭手が石に呼応する。
視線を上げたトレンスキーの唇から穏やかなトフカ語が紡ぎ出された。
『高く、広く、薄く、柔らに。今ここに、恐るるものは何もなし……』
言葉の余韻が消える頃、水笛のような声が湖上から響き渡った。
見れば靄を翼で薙ぎ払い、サリエートが威嚇するように白山羊たちの前へ姿を見せたところだった。白く巨大なその姿を仰いだトレンスキーはポケットを探る。
風精石のかけらを詰めた緑の包み。それを”孤高”の結晶と合わせて篭手の上に乗せる。深く息を吸ったトレンスキーが中空に向けてトフカ語を唱えた。
『晴天に雲の白糸張りつめて
弦楽の宴、奏で奉らん
雪解けの地に花咲かせ、
三天の民の紅き翼を震わせる
慈雨の筝曲、奏で奉らん──』
すい、とトレンスキーがアーシャ湖に向けて右腕を伸ばした。きらりと光を放って二色の四精石が霧散する。その瞬間、サリエートの羽ばたきよりも大きく、しかし穏やかに渦を巻く風が篭手から放たれアーシャ湖全体に広がっていった。
風は周囲の靄を引き連れて高く高く昇ってゆく。やがて湖の上空を包みこむように白みを帯びた雨雲が広がると、次々と大粒の雫が降り注いだ。
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