決行の朝

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 暖かな風に視界が晴れたのが合図だった。 「ラウエルさん、雲が!」  空を見上げたアンティが叫んだ。ぎりぎりまでサリエートを地上に引きつけていた白山羊がすぐに岸辺を目指して走り出す。記憶した退路を辿る背中からは、落ちる雨粒に反応して(つた)の種が次々と芽吹きだしていた。  湖面から急に現れた蔦に、招来獣(しょうらいじゅう)たちが逃げる間もなく絡め取られてゆく。戸惑い荒ぶる声の中にはサリエートのものも混じっていた。  降り注ぐ雨の中、白山羊は危なげなく蔦と招来獣とを避けながら湖の端にいるトレンスキーの側へ駆け寄った。 「アンティ、ラウエル!」  トレンスキーが手を振りながら氷上へ足を踏み出した。 「大丈夫か、怪我はないか?」  白山羊の上で大きく頷いたアンティは後方に視線を向ける。 「僕たちは平気です、師匠(せんせい)は早くサリエートを!」 「ここからは、君のなすべきことなのだ」  二人の言葉にトレンスキーは安堵の笑みを浮かべながら頷いた。ここまで上手く事が運んだのは彼らのおかげだ。 「ああ、後は任せてくれ」  トレンスキーは気を取り直したように表情を引きしめると湖へ向き直った。手に用意していた小さなガラス玉をそっと宙に放る。氷と触れた瞬間、ガラス玉は弾けるように砕けて澄んだ鈴の音を湖上に響き渡らせた。 『──()くも(たっと)四色(ししょく)四晶(ししょう)  世界(せかい)(ひら)きし十六(じゅうろく)の  力秘(ちからひ)めたる深淵(しんえん)の  御座(みざ)(ましま)光王(こうおう)大前(おおまえ)に  (つつし)(たてまつ)りて(もう)さく……』  トレンスキーが(りん)とした声でトフカ語を紡いでゆく。  まだ全ての意味は理解できなくても、その音律はどこか胸の深いところを打つ。静かに耳を傾けながら白山羊の背を下りようとしたアンティは、しかしはっと顔を上げた。  湖上から高い水笛の音が木霊(こだま)した。次第に弱まる雨の中、脚に絡まる蔦を振り切って巨大な白鳥が飛び去ろうとする一瞬が金の瞳に映った。 「──ラウエルさん!」  アンティが白山羊の角を強く掴んだ。  トレンスキーは既にトフカ語の詠唱に集中している。半眼に細められた薄青色の目に周囲の状況は映っていない。 「サリエートを追ってください、このままでは逃げられます!」  アンティの声に打たれたように白山羊が湖面へと駆け出した。  蔦を避けて走りながら白山羊がアンティに問いかける。 「何か策はあるのだ?」 「(つた)の種はまだ少し残っています!」  アンティの手が首から掛けた革袋に触れた。 「さっきは距離が遠かったせいで、もっとサリエートと近い位置で使えばきっと……!」 「では、後は君次第ということなのだ?」  濡れた氷上を渡りながら白山羊は淡々と告げる。その言葉にアンティは大きく目を見開いた。  詠唱を始めたトレンスキーは忘我状態に入っている。当然、その間は四精術(しせいじゅつ)を使うことができない。ならサリエートを捕らえるためにトフカ語を唱えて蔦の種を発芽させるのは、……彼女の弟子である自分しかいない。 「僕に、そんなこと……」  しなければならないことに気づいたアンティの唇が震えた。怯むような声を耳元で聞いた白山羊は、氷を蹴る脚をわずかに緩めた。 「できるはずなのだ」  静かに、淡々と、白山羊がアンティに言葉を伝える。 「あれのために、招来獣を”還す”手助けをする。そう決めて君はここまで来たのだ?」 「それは……」 「あれの側にいた君ならば、きっとできるはずなのだ。私はそう信じているのだ」  その言葉に偽りがないことは、招来獣に共鳴する自分の心で十分に理解できた。  アンティはぐっと歯を噛みしめる。白山羊の角を握り直すと、金色の視線を再び強くサリエートに向けた。
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