決行の朝

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 アーシャ湖の中ほどまでたどり着いた時、サリエートは警戒するように湖上を旋回していた。いつ翼を傾けて湖を去ってもおかしくないその様子に、アンティはもどかしげな顔で空を仰いだ。 「ここから、どうすれば(つた)の花が届くでしょう?」  届かなければせっかくの帰還の(うた)が台無しになってしまう。唇を噛むアンティの下で、白山羊は若草色の目を湖岸へ向けた。  雨上がりの(もや)が再び広がりだす湖の上を、散歩でもするかのようにふわりと歩く人影が見えた。  灰茶の外套(がいとう)を揺らすトレンスキーだった。普段と異なる雰囲気を備えたまま招来獣(しょうらいじゅう)たちの一体一体に寄り添い、優しく語りかけて抱擁(ほうよう)を与えている。まだ数は残っているが、彼女が湖上の招来獣を全て”還す”のも時間の問題だった。 「背から下りるのだ」  白山羊がアンティに告げた。 「下りて、君は地上(ここ)四精石(いし)の準備をしておくのだ」 「ラウエルさん?」 「私がサリエート(あれ)を連れ戻してくるのだ。……多少驚くかもしれないが、君のすべきことは変わらない。それだけ覚えておくのだ」  やや戸惑ったものの、他に良い方法があるわけでもない。アンティは小さく頷いて白山羊の背中を下りた。  子ども一人分の体重が消えると、白山羊は白鴉へと姿を変えた。鋭い羽ばたきで瞬く間にサリエートの側まで肉薄する。  同じ白でも、見上げた姿は小鳥と羽虫ほどに体格差がある。アンティは不安げに目を細めたが、すぐにラウエルに言われた言葉を思い返してポケットを探った。  術師装束と共にトレンスキーから渡された小さな布袋。四精石のかけらが詰められた四色の包みだった。その内の青色を手に取った時、頭上からサリエートの声が響いた。怒りと驚きの入り混じった鋭い声だった。  視線を上げたアンティは目を見張って言葉を失う。  巨大だと思っていた白鳥の影よりも、さらに巨大な生物が空中に現れていたのだ。  羽毛か毛皮か、白銀に覆われた胴は馬よりも太くどっしりとしている。そこから伸びる首はやや細長く、二本の角が生えた頭部へと続いている。サリエートを抱えこめるほどに広げられた腕は翼のように膨らんだ形をしていた。  初めて見る姿の生物だった。それはどんな獣とも異なる形状だったが、アンティはぽつりと思い当たった一つの言葉を口にした。 「白い、竜……?」  サリエートは遠目にも動揺していた。まさか自分より大きな存在に追い立てられるとは思ってもいなかったのだろう。崩れた体勢を立て直す隙も与えず、白竜はその巨体でサリエートを地上へと追いやってゆく。急降下してくるサリエートの姿に、アンティは蔦の種と水精石(すいせいせき)の包みを握って構えた。  巨大な姿が湖面に降り立つ衝撃で足元が鈍く揺れた。霧雪(きりゆき)混じりの風が切りつけるようにアンティの全身を打つ。 『朝露(あさつゆ)()う、(まみ)えの──』  唱えかけたアンティの視界に羽毛を逆立てた白鳥の影が迫った。ひねって避けた体の先で、黒光りする(くちばし)が刃物のような鋭さで右袖を切り裂いてゆく。弾かれた衝撃で右手の包みが手から飛んだ。 「……っ!」  アンティが氷の上に転がる。立ち上がったものの、足元の氷は水気を含んで滑りやすい。対するサリエートは氷の上に堂々と立ち、足が乱れる様子もなかった。  周囲を見渡す。失った青の包みは氷にまぎれて見つけることができない。代わりに見えたのは再びこちらに向かってくるサリエートの姿だった。  とっさに短剣の鞘を抜き払った。  黒い嘴と抜き身の短剣が硬い音を立ててぶつかる。打ち合った瞬間、アンティが険しい表情で歯を噛んだ。  小柄なアンティが得意とするのは身軽な動きで相手を翻弄する闘い方だ。真っ向からの力比べには向いていない。滑りやすい氷上では力を込めることも攻撃を受け流すことも難しかった。  サリエートの攻撃を受けた短剣ごとアンティの体が宙に浮いた。  アンティは猫のように空中で体勢を整えると、着地した氷上を滑るに任せてサリエートから距離を取った。被っていた帽子が飛び、乱れた短い黒髪があらわになる。  白竜の姿をしたラウエルは上空で、サリエートの退路を断ちながら湖上の様子をうかがっている。助けを求めることはできそうになかった。
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