亡国カルバラにて

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亡国カルバラにて

 吸い込んだ空気に夏草の香りを感じ、トレンスキーはゆっくりと瞬いた。  次第に焦点をむすぶ視界には揺れる木立の影が映る。やや首を傾けると、隣にはぼんやりと遠くを眺めるアンティの横顔が見えた。 「アンティ」  声をかけると、アンティはすぐにトレンスキーを振り返った。トレンスキーの顔をのぞき込みながらそっと尋ねる。 「大丈夫ですか、師匠(せんせい)?」  頷いたトレンスキーは軽く周囲を見回した。  夏の空が眩しく見えた。鮮やかな緑で描くトーヴァの稜線(りょうせん)薄靄(うすもや)の向こうに佇んでいる。どうやらアーシャ湖から少し離れた場所まで移動していたらしい。  遠目に見えるアーシャ湖には日の加減で柔らかな虹が架かって見えた。中天から注ぐ日差しは強く、外套(がいとう)を羽織ったままの肌は木陰にいてもやや汗ばんでいた。  背にした木から体を起こしたトレンスキーは側に座るアンティに聞いた。 「サリエートは”還せた”のじゃな?」 「はい」  頷いたアンティの目元にはくっきりと深い(くま)が浮かんでいる。それでもその顔には達成感が満ち溢れていた。アンティの表情を見て、トレンスキーもようやく安心したように笑みをこぼした。 「そういえば、ラウエルの姿が見えんが?」 「ラウエルさんは一度湖まで戻りました。取りに行くものがあると」 「取りに行くもの?」  不思議そうに首をかしげたトレンスキーが再び湖の方角を眺める。見ればこちらに向かって歩いてくるラウエルの姿が見えた。 「ラウエルさん!」  立ち上がったアンティが大きく手を振った。トレンスキーが目覚めたことに気づいたのだろう、ラウエルの歩幅がやや大きくなった。  二人のいる木陰までやって来たラウエルはトレンスキーに問いかける。 「気分はどうなのだ?」 「大丈夫じゃよ。……なるほど、お主が取りに戻っていたのはそれか」  ラウエルは頷くと、手にしていた帽子を隣に立つアンティの頭に乗せた。落としたことに気づいていなかったのか、アンティは少し驚いた顔をしてラウエルを見上げた。 「それから、これは君に」 「ワシに?」  ラウエルがトレンスキーにハンカチを差し出す。受け取ってその中身をのぞき込んだトレンスキーはおおと息を吐いた。  そこには色も大きさも様々な四精石(しせいせき)の結晶が包まれていた。その一粒一粒に、大人一人が楽に一年暮らしてゆけるだけの値が付けられるはずだ。 「……水精石(すいせいせき)第三晶、”融和(ゆうわ)”か」  トレンスキーはひときわ大きな青い結晶を手に取ると、そっと木漏れ日にかざした。薄青色の目を細めると感慨深げに呟く。 「たぶんこれが、サリエート(あやつ)の核じゃろうな」  横に立つアンティもトレンスキーの掲げる青い結晶をのぞき込んだ。二人の姿を見下ろしたラウエルが小さく言う。 「今回は、これのお手柄だったのだ」 「アンティの? そうなのか?」  アーシャ湖に雨を降らせてから先の記憶はぼんやりと曖昧だ。興味深そうに尋ねたトレンスキーにラウエルは頷いてみせる。 「これの判断がなければ機会を逃していたかもしれない。それに、これは初めて四精術(しせいじゅつ)を使ったのだ」  トレンスキーが大きく目を見張った。 「本当か、アンティ?」 「はい、その、……ゲルディさんの真似をして」  アンティは少しはにかんだ表情で答えた。 「あやつのか、それはまた意外じゃな?」 「君の唱えるトフカ語はひどく難解なのだから、あれの術の方が良い手本になったということなのだ」 「むぅ、そんなことは……」  ラウエルの言葉に心外そうな顔をしたものの、トレンスキーはすぐに気を取り直したようにアンティに笑いかけた。 「それにしても、本当に頼もしくなったのう。さすが男の子、成長が早くて何よりじゃ」  その言葉にアンティはぱちりと目を瞬かせた。しばらく木陰を見下ろした後で、ゆっくりとトレンスキーに言った。 「……師匠(せんせい)、違うんです」 「違うとは?」  トレンスキーは不思議そうに首をかしげる。その目をやや緊張した面持ちで見つめながらアンティは言った。 「僕は、男ではありません」
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