わたくしは猫

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 皆さまどうも初めまして。猫でございます。  たった今猫と名乗ったばかりなので恐縮なのですが、わたくし、実は先ほどまで確かに人間だったはずなのです。  ぽかぽかとした陽気の昼下がり。はたと目を覚ましたら、どこかのお宅の庭先に寝そべる猫になっていたのです。  ああ、ピンクの肉球。長い尻尾。頭に手……失礼、前足をやれば三角の耳がしっかり生えております。口元のひげもぴんぴんです。何ということでしょう。  そして、もう一つ。それ以上にわたくしを困惑させることがあるのです。  わたくしは自分が人間だったと申しましたが、その人間だった頃のことをすこしも思い出せないのです。  なんという名前だったのか。どういう姿をしていたのか。男だったのか、女だったのか。年寄りか若者か。  欠片も思い出せないのです。  さてさて。困ったことになりました。どうしたらよいのでしょう。  おろおろと見下ろせば、縞々の尻尾がちらちらと目に入ります。狼狽えるわたくしの心を映したように、ぴたんぱたんと地面を打っているのです。  この尻尾とやら、どうやらわたくしの意思で動かしているようなのですが、どうして動いているのか、理屈がちっともわからない。まるで心の声が勝手に外に漏れているよう。ああ恥ずかしい。  なんとか尻尾を押さえつけようと苦心していると、遠くからパタパタと軽い足音が聞こえてきました。  ……あら、なんだか嫌な予感。 「おにわにいたんだ」  やってきたのは浮かない顔つきの、小さな男の子。いくつかしら。五つくらいかしら。  とことこと近づいて、ドスンと音がしそうな勢いでしゃがんだ割に、わたくしにはそうっと声をかけてくれました。 『こんにちは、坊ちゃん』  そう言ったつもりなのに、わたくしの口から出たのは「にゃーおん」という声。ですが、それが思いの外しっくりとしたものですから、驚いてしまいました。もしかしたらわたくしは猫の才能があるのかもしれません。よその猫のように、小鳥やねずみや虫を追い回すのはちょっと難しいでしょうが。 『どうしたの。今にも泣いてしまいそうなお顔よ』  わたくしは坊ちゃんに声をかけます。とはいえ、やはり耳に聞こえるのは「にゃーおん、うなーん」ですが。  坊ちゃんの顔はみるみるうちに雨の降る前の空のように沈んでいきます。  それを見ていると、どうにも心がそわそわして、わたくしの尻尾の先がぴろぴろと動きます。ああ忌々しい。すこしでいいからどうか大人しくしてくださいな、尻尾さん。 「……ママ、まだおこってるかなぁ」  言うが早いか、坊ちゃんのおめめからぽろりと雫がこぼれ、わたくしの頭にぽたんと落ちました。反射的に頭をぶるぶると振れば、坊ちゃんが目元をこすっていたお洋服の袖でわたくしの頭をそっと拭いてくれました。 「あそんでたらね、うるさいって……」 『そう、それは悲しかったわね。元気を出して』  ぐずぐずと鼻を鳴らす坊ちゃんに、わたくしはみゃおみゃおと話しかけます。  ほらほらもう泣かないで。そんな気持ちを込めて、しゃがんだ膝小僧に身体をこすりつけました。小さなおててがわたくしの背を撫でます。でも、お顔は雨模様で、ちっともわたくしを見ておりません。きっと無意識なのね。  わたくしが、元のように人間だったなら。  可哀想な坊ちゃんの頭を撫でてあげられるのに。  その時。猫の耳が捉えたのは、こちらに近づいて来る足音。少し引きずっているようだから、きっと足が悪いのね。坊ちゃんを探しに来たのかしら。  ここよ、ここ。ここですよ。小さな坊ちゃんはここで泣いているわ。  一生懸命、みゃーんにゃーんと鳴いてみれば、お家の陰からおばあさまが現れました。 「あら、一緒にいたのね」 「ばあちゃん」 「ママが探していたよ」  それを聞いて、すっかり黙り込んでしまった坊ちゃんの隣にしゃがもうとしたおばあさま。その細い身体がふらりとよろめきました。慌てて坊ちゃんが手を伸ばしますが、小さなおててには支え切れるわけもなく。ふたりはどすんと尻もちをつきました。 「ばあちゃん、だいじょうぶ?」 「ありがとね。ごめんね。怪我してないかい」 「うん」  ああ、ああ。わたくしが元のように人間だったなら。  足の悪いおばあさまを両の手で支えて差し上げられるのに。 「にゃあおん……」 「あらまあ、あなたも心配してくれるの?」  おばあさまが目をゆったりと閉じるように、にっこりと微笑みます。  ねえ、おばあさま。いつも思うのだけれど、わたくし、そのお顔大好き。  思わず目を細めて返したら、おばあさまはとても喜んでくれました。 「この子はね、いつも笑い返してくれるのよ。本当に賢い猫だこと」  ――あら?  おばあさまの言葉に、なんだかとてつもない違和感を感じます。 「ぼくのこともね、なぐさめてくれたよ。にんげんみたいだよね」  ――あらあら?  坊ちゃんの言葉にも違和感。  視界の端で、ゆらんゆらんと縞々の尻尾が揺れます。  そして、わたくしは気が付いてしまったのです。  あらあら、まあまあ。もしかして、わたくし。  猫だったの?自分を人間だと思い込んでいた、猫だったのかしら?  でもそう考えると、つじつまが合ってしまうのです。  だって、だって。  自分が人間だったときのことを思い出せないのも。  にゃあと鳴くのがしっくりくるのも。  気にしないふりをしていたけれど、さっきから坊ちゃんのお洋服にぶら下がっている紐が揺れる度ににそわそわしてしまうのも。  わたくしが生まれながらの猫だから。  ほら、しっくり。  なんとまあ、恥ずかしい。尻尾が勝手にせわしく動くので、慌てて毛づくろいで誤魔化します。  一通りつくろったあと、何事もない顔で様子を窺えば、おばあさまも坊ちゃんも、わたくしの心に感付いてはいないようでほっと胸をなでおろしました。ああ良かった。  でも何ということかしら。わたくし、猫だったのね。始めからずうっと。  ……猫、だったのだけれど。  ふたりはにこにこと、幸せそうにわたくしを見ています。  わたくしには、泣いている坊ちゃんの頭を撫でてあげることも、よろめいたおばあさまの身体を支えることもできないけれど。  ふたりの心に寄り添うことは、きっと、できているのだわ。  わたくしは、確かめるためにふたりに向けて「にゃーおん」と鳴いてみました。すると、やはり。ふたりはもっとにっこり顔になるのです。  なんて嬉しい。わたくしにも、立派にふたりを笑顔にすることができるのよ。  それならまあ、猫でもいいのかしら。  そんなことを考えた途端。わたくしの縞々の尻尾が空に向けてピンとまっすぐに伸びました。 「あらあら、何か嬉しいことがあったのかしら?」 「ねこさんはしっぽでおしえてくれるんだよね!」  ――ああもう!これさえなければもっと素晴らしいのに!
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