《1》

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《1》

 私は思わず舌打ちをした。  いいえ、むしろ意図的に、派手な舌打ちをしてやりました。    梅雨(つゆ)(ぞら)が重たくのしかかる朝──、起きるのが(いや)で寝坊してしまい、化粧もろくにせず家を出たのは数分前。  車の中で眉を書けばいいや。ファンデーションはこの際どうでもいい。どうせいつだって薄化粧なんだし、口紅なんかもしばらく塗っていない。とりあえず眉だけ書いとけば、それなりの外見にはなるわ、と、私は半ば(ちょう)(ぜん)たる心境だった。  でも、最初の信号までは気を抜けない。この辺はやたら狭い道路が続き、対向車と道を譲り合いながら進まないといけないからだ。会社への道のりは、平均で二十分ぐらいかかる。そのうち五分前後が、この狭い道路を通る時間だ。ここをすんなり抜けられた日は、何となく良い気分で仕事を始められる。  ところが、頭の悪い運転手はごろごろいるもので、自分さえ良ければいいと無理やり車を突っ込んでくるやつが多い。それを()けるって言っても、側面は民家の壁なもんだから限界がある。下手をすれば、双方が進むことも退()くこともできずに停車し、後続の車両に大変なご迷惑をかけることもある。私はそのたびに嫌な気持ちになって、あほんだらな運転手どもに車内で文句を垂れていた。  そういう経緯があるから、日々の怒りは蓄積していた。この道を一方通行にしない行政に対しても一言言ってやりたかった。遅刻すれすれに出勤する私も悪いさ。もっと余裕を持って家を出られたら、いらいらも少なくて済むのは分かっている。でも、それを言うなら社会も悪いじゃないの。安月給で働かせてさ、その給料の四割ぐらいを税金とかで持っていかれてさ。日本人は、本当に危機感を持った方がいいよ。どんなに節約しても、どんなにお金を使わないよう心がけても、毎日、何らかの税金を払っているんだ。税金を一円も払わない日はない。そんな社会だからさ、少しぐらい朝を怠けたっていいじゃん。  心の中でぶー垂れていると、また頭の悪そうな運転手が、自己中に車を突っ込ませてきた。私は民家の壁ぎりぎりに車を寄せて、幼児の乗る三輪車よりも遅い速度ですれ違おうとする。そのとき、車内に衝撃が走った。どうやらサイドミラーが対向車とぶつかったらしい。  ああ、うざい。私は日々の疲れをそのまま出すような舌打ちをした。事故というほどの事故ではないけど、何だかどうしようもないぐらい面倒くさくなった。ちょっとこれ、どっちが悪いのよ。て言うか、私の車は限界まで壁に寄せてあるんだから悪くないでしょうよ。
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