愛なんていらない

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 リビングと一続きになったキッチンの食卓でわたしは母と向かい合って座っていた。わたしはアルコール度数が低く、甘ったるい酎ハイを、母はウイスキーをロックで舐めている。  わたしはわずかに薄暗い部屋の中をゆっくりと見渡した。くすんだ壁掛け時計、冷蔵庫に張られた無数のメモ、汗染みの浮き出た布張りのソファー。そこは記憶の中のものと何一つ変わらないはずなのに、それでも確かに年月によって浸食をうけていた。  酎ハイの缶を傾け、そして嚥下して口を開く。 「わたし、明日には帰るけど一人で大丈夫?」  母がわたしの目を見て、口角をほんの少しだけ持ち上げる。 「ええ、大丈夫よ」  わたしは缶を弄びながら相対している母の顔をじっと見た。髪には白いものが混じり、目元には小じわが刻まれ、頬には小さなシミがいくつか浮き出ていた。そんな母の顔もこの家同様に記憶と変わらないはずなのに、やっぱり過ぎ去った年月の長さを思わせる。  視線を少しずらして母の首を見る。そこに残る細い、しかし深い傷跡。それだけは時間に侵食されずに昔からずっとそこにあった。父が、つけた傷だ。  母がグラスを振り、中の氷をカラコロと鳴らす。鳴らしながら、ぽつりと恐らく独り言をつぶやいた。 「お父さん、死んだわね」  母の目は、何故だか寂しそうに見えた。寂しそうな目で波立つウイスキーの液面を見つめている。どうしてそんな目をするのだろう。その目は、あいつにはもったいないものだ。あれほどわたしたちは苦しめられたではないか!  わたしは思い出す。あの頃を――わたしがまだ高校生だったころを――この家に住んでいた頃を――苦しかったあの頃を思い出す。父の暴力に、父の怒号、わたしと母を苦しめた思い出。  痛みが全身をめぐる。  怒号が、頭の中を蹂躙する。  そうだ。初めて明確な殺意を覚えた人間は父だった。  再び、母の顔を見る。恨んでいたはずではなかったのか。苦しかったのではなかったのか。なのに、今母の顔に浮かんでいる表情は最愛の人間を亡くした女の顔だ。気づかれないように奥歯を食いしばる。  それからわたしたちはゆっくりと体中にアルコールを回しながら、ぽつりぽつりと言葉を交わし、刻々淡々と過ぎ去っていく時間に身を任せていた。会話はそれほど弾まない。わたしと母が仲睦まじく昔話に花を咲かせるには、わたしたちの環境は過酷すぎたし、それ以上にあっていない時間が長すぎた。  わたしが高校卒業とともにこの家を出ていってから、こうやって母と相対するまでの十数年を思い浮かべる。どれほどつらかったのだろうか。わたしと母二人でも父の暴力に耐えることは難しかったのに、わたしが出ていくことによって本来わたしに降りかかったはずの苦しみは一点集中で母のもとに向かうのだ。家を出るとき、母を置いていくということに少なからず罪悪感を覚えた。もしかしたら母は耐えられないかもしれない。いつか、自らの手でもって苦しみから解放されていくかもしれない。そんな思いに苛まれた。でも、それでもわたしは一人で出ていくことを――逃げることを選んだ。わたしは弱かった。それだけの話だ。誰がわたしのことを責められよう? 「――ほら、駅前の広場って、クリスマスになるときれいな電飾で覆われるじゃない。イルミネーション。あれを二人で眺めながめているときに、お父さんの方から告白されたのよ」  気が付くと、会話は近況報告と世間話から、母と父の馴れ初めと惚気話に移り変わっていた。母の頬は、父が飲み残した――飲み遺したウイスキーによって赤みがかっている。瞳はとろんとしていて、ろれつが怪しくなっている。わたしは酎ハイを飲み干して缶を握りつぶした。母は何杯目かわからないウイスキーをグラスに注ぎながら、父との楽しかった思い出をわたしに語っている。本当に楽しそうに語っている。  既に母の中で、父にもたらされた苦しみはどこかに消えてしまっているのだろう。そこに残っているのは、かすかに残った父との楽しかった思い出だけ。  わたしは視線を下に落とし、母の左手薬指を見た。くすんだ輝きを放つ 細い銀の指輪――  目の前の母は病に侵されている。そう思う。  愛という奇病に、  愛という不治の病に、  どうしようもなく侵されてしまっている。  どんなに苦しくても、どんなに辛くても、それでも最後にはそれらが無かったことになってしまって、あとに遺るのが片手ですくえるほどの量の幸せなのならば。  愛なんていらない。  わたしは声に出さず、舌の上で転がすように呟いた。
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