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屋外で用具の点検作業をしていた周吾の元に、先輩消防士である殿山がニヤッと笑いながら近付いてくる。その気配を感じ、なんとなく顔を背けた。
「周吾〜! 絢斗から聞いたぞ。旅行者の女の子の尻を追いかけ回してるんだって〜? どんな子だよ、もうアタックしたわけ?」
あいつめ……もう喋ったのか。昔から殿山さんの言いなりだからな。
「も、もしかしてもう……!」
「とーのーやーまーさーん! 仕事中ですよ」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃないか。俺は『もう恋なんてしない』と言い張ってたお前に、ようやく春が訪れたのかと思って胸がホクホクしてたんだぞ」
昔から顔馴染みばかりの小さな町だし、それぞれの恋愛事情は筒抜けだった。もちろん殿山さんが付き合ってきた人も知ってるし、彼の奥さんの元カレだって知ってる。
だから俺が彼女にフラれた時は、仲間たちが集まって激励会をしてくれた。そのこともあって地元で恋愛する気も起きず、仕事に打ち込んできたのだ。
またフラれたり別れたりしたら、この町を離れたくなってしまうかもしれない。
別に恋がしたかったわけじゃない。あの日那津さんに声をかけたのだって、憔悴しきった彼女の姿を見て、いつかの自分と被って見えて放っておけなかっただけ。
ただ那津さんがめちゃくちゃ好みのタイプだったのは誤算だった。しかも性格良いし。あっという間にのめり込んでしまったんだ。
だから焦った。一週間しかない上、彼女は裏切られて傷付いていたから、簡単には心を開いてくれないだろうと思っていた。
それにしても元カレが最低な奴過ぎて、那津さんの男の趣味を疑ったけど。あいつよりは俺の方が良い男に違いない。
ようやく那津さんと心も体も繋がったって思ってるけど、彼女の正直な気持ちはわからなかった。
彼女にとっては一週間だけの関係なのかな……でも俺は出来ることならこのまま終わらせたくはない。
「なになに、そんなにのめり込んじゃうくらい可愛いの?」
「めちゃくちゃ可愛い。良い子だし」
「でも旅行者なら帰っちゃうよなぁ。どうするの?」
「……まだ考えてない」
その時だった。
「周吾〜!」
声がして振り返ると、絢斗が小走りにこちらに向かって駆けてくる。
「どうした?」
「あっ、先輩もいたんだ。それがさ、周吾がゾッコンのあの子がさ、なんか都会の空気をバンバン出してる女の人と一緒に漁港に来たんだ。でもちょっと雰囲気が険悪というか……気になったから一応周吾に知らせておこうと思って」
「えっ……でも那津さん、こっちに知り合いなんていないはずだけど……」
「じゃあ友達を呼んだとか?」
「いや、誰にも行き先は言っていないはず……」
周吾ははっとする。いるじゃないか、那津さんの居場所を知っている人間が……。だけどあいつは男で……あぁ、そうか。浮気相手にならそのことを漏らすかもしれない。
でも何をしに来たんだ? 嫌な予感しかしなかった。
「殿山さん、悪いんだけど、俺ちょっと行ってくる」
「えっ……周吾⁈」
周吾は居ても立っても居られなくなり、漁港に向かって走り出した。
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