月に祈る

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 誰もいない真夜中の静謐なレッスン場で、窓から差し込む薄明るい月の光を浴びながら彼はそこにまっすぐ立っていた。  逆三角形の美しい背中は肩甲骨が際立ち、ヒップラインは締まっている。  何よりしなやかな上腕三頭筋が宙に優雅な弧を描く。  その究極の肉体美は、一切の妥協を許さない日々の地道なトレーニングによって作り上げられた唯一無二の芸術作品。  彼の醸し出す圧倒的存在感はさすが彼ならではとしか言いようがない。  バレエの基本ポジションをゆっくりと取る。  第一ポジションから第二、そして第三へ……。時間をかけ信じがたいほど丁寧に。  ただポジションを取っているだけなのに、彼の肌は徐々に汗ばみ、能面のように冷たい彼の顔が、次第に愉悦の表情に変わっていく。  眼前で繰り広げられる光景を目の当たりにしながら、私はひどく不思議な感覚を覚えた。  何故、こんな基本中の基本を……彼ほどのダンサーが……。  基本が大切なのはわかっている。でも、彼の基本へのこだわりは度を逸している。 「このパから無限のパに繋がっているんだよ」  その時。  私の疑問を見透かすように彼は言った。  それは至福の表情で。  ああ、だから……。  彼という偉大なダンサーが存在するのは。  月の光を浴びて踊る彼は、この世の誰よりも美しい。  その姿は、サタンの如く強い魔力で私の意識を奪う。  踊る彼の姿をずっと見ていられるようにと、私は今宵のあの月に祈り続ける──────   
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