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都市から離れたとある小さな街には、不思議な噂があった。
その街のはずれにある森の奥深くにはアンティーク調のお屋敷があり、そこには大層綺麗で、まるで人形のような少女が住んでいるという。――しかし、その少女は呪いを持っており、少女に出会うとたちまちに心を奪われ、生き人形のようになってしまうという。
「良いよ、僕が確かめてこよう」
ある日、一人の青年がそう名乗りをあげた。彼は美しい少女に対する興味と呪いに対する恐怖を天秤にかけて悩む友人たちを見かねて、動物ですら入るのを躊躇うような森の奥深くへとひとり向かった。その場にいたうちの一人が「危ないから僕も行くよ」と言ってくれたが、普段グループでしか話したことのない友人と二人っきりで長時間過ごすより薄暗い道をひとり歩く方がマシだと思い丁重に断った。青年が森の奥へと歩みを進めていくと、木が生い茂り昼間でも薄暗かった森の中に光が差し込んでいるのが見えた。その光に吸い寄せられるように近づいていくと、今までの鬱蒼としていた茂みとは相反して、整地されひらけた土地が現れた。そしてその真ん中には、噂と違わぬ立派なお屋敷があった。
青年は最初、それを巨大なドールハウスのように思った。細かいところまで整備され、余計な雑草一本なく花に囲まれた美しい庭。歴史を感じるのに劣化を感じさせない西洋風の可愛らしいお屋敷。――そしてその窓辺に座り目を閉じている、ドレス姿の少女。
そのとき、少女の目がゆっくりと開いた。長いまつげの導線を辿っていた少年は、ふと我にかえる。いくら怪しい噂があるからといって、他人の庭に忍びこみ主を窓から覗いているという事実は、不審者と言われても言い逃れができない。
「あ、あの」
青年が慌てて弁明をしようとすると、少女がこちらをじっと見つめた。その大きな瞳に慄いてか魅入られてか、目を離すことができなかった。青年は弁明の言葉をとめて立ち尽くす。そんな青年を三秒ほど見つめた少女は、ゆっくりと青年へ手招きをした。ふと我にかえり屋敷の入り口へ目を向けると、まるで青年を誘うように両開きの扉が開いていた。どうせ乗りかかった船だ、幽霊でも不法侵入でもなるようになれと思い切り、青年は薄暗い玄関で靴を脱ぎ、いつの間に用意されていたのか目の前に揃えて置かれたふかふかのスリッパに足を通して、先程少女が居た部屋を目指した。外で確認した位置を頼りにそれらしき部屋の扉を開けると、少女は窓辺の椅子に座ったままゆっくりとこちらへ振り向いた。
「……こんにちは」
声をかけると、少女は黙って右手を前に伸ばした。その手の先には、小さな丸テーブルを挟んで少女が座っているものと同じ椅子が置いてある。座っても良いという意味だろうか、とおそるおそる腰掛けると、少女はこれまたいつの間にか用意されていたティーカップを差し出してきた。
「……飲んでも良いの?」
青年が尋ねると少女はこくりと首を前に振った。特に怪しいものは入っていなさそうだったので、遠慮なく真紅の液体を口に含む。その紅茶は渋みがなくすっきりとした甘さがあり、熱いはずなのにするすると喉を通っていった。
「……美味しい?」
青年は思わず持っていたカップを落としそうになった。紅茶の美味しさにではなく、少女が言葉を発したことに驚いたからだ。もしかしたら、少女のことをどこかで人形だと思っていたのかもしれない。手入れされた広大な庭を持つ洋館。その窓辺からのぞく、ひとりの人影。近づいて眼に映るのは、羽根のような軽やかさとシルクのような艶をだす長いブロンドの髪と大きく宝石のような瞳、それに白磁器のような指を持つドレス姿の少女。それはまるで一枚の絵画のように完成されていた。まばたきする仕掛けのある人形なんてものがあっただろうか。青年はやはりその美しさが自分と同じ人間が生み出せるものとはにわかには信じ難かった。
「美味しいよ、ありがとう」
青年がそう伝えると、少女は薄紅の口の端をあげ目を細めた。近所の懐かない野良猫が初めて擦り寄ってきた時に似た高揚感を覚え、気恥ずかしさから思わず顔を背けた。その瞬間、少女は青年に詰め寄り、大きな瞳で顔を覗き込んだ。突然のことにギョッとし咄嗟に顔を離すと、少女は落胆に似た表情を見せた。
「どうして……? もう『幸せ』がなくなるなんて……」
「え?」
青年が聞き返しても、少女はどうして、どうしてと呟くばかりだった。それはだんだん発作のようなものに変わり、青年は少女の肩を揺さぶった。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
青年に肩を揺さぶられた少女は相変わらず虚ろな目をしながら、尚も青年に問いかけた。
「どうしてすぐ感情が変わってしまったの? 私に頂戴よ、教えてよ」
「落ち着いて、とにかく一度座って話そう」
半ば強引に椅子に座らせると、少女は呆然とした表情で紅茶に口をつけた。
「違う。これじゃない」
そう言うと、少女は糸の切れた人形のように全身からだらりと力が抜け、僅かに椅子からずり落ちた。その屋敷で起きた数々の出来事に思考が追いつかず、気づけば青年は外へと飛び出していた。
次の日、青年は再びあの屋敷へと向かっていた。昨日は無我夢中で家へ帰り、そのまま泥のように眠ってしまった。意識を失った人間を放置してきたという罪悪感もあったが、何より散々不気味さを感じたあの少女に、なぜかもう一度会いたくて仕方がなかった。「あの屋敷に辿り着いて無事に帰ってこれたら、みんなで一杯ずつワインを奢る」なんて陳腐な賭けのことなどとうに忘れ、青年は昨日の記憶を頼りに必死にあの屋敷を探した。もしかしたら昨日のことは全て長い夢で、屋敷なんてないんじゃないか。そんな不安が頭をよぎった頃、それは現れた。美しい庭、西洋風のお屋敷、窓辺に映る美しい少女。夢ならまだ消えないでくれ、と青年は慌てて少女のもとへと駆け寄った。窓をノックすると、少女は目を閉じたままだったが、昨日と同じように入り口の扉が開く音がした。少女を横目に屋敷に入ると、今度は少女が真っ直ぐこちらを見つめて座っていた。
「昨日はごめん」
青年が謝ると少女は小さく首を振り、深々と頭を下げた。
「こちらこそ昨日は驚かせてごめんなさい。せっかく好きな味かと思ったらすぐに消えちゃったから、悲しくてつい取り乱してしまったの」
「昨日から気になっていたんだけど、その、昨日君が口走っていたことや今言ったことがよく理解できないんだ。もし差し支えなければ、詳しく聞いても良いかな」
青年がそう尋ねると、少女は哀しげに目を伏せて言った。
「私は、『幸せ』の感情が理解できないの」
最初、青年は少女が冗談を言っているのかと思った。
「私は生まれつき感情を持つことができなかった。花を見れば美しいとは思うし、紅茶を飲めば美味しいとも思う。でも、それだけなの」
「でも君は昨日、僕が紅茶をご馳走になったときに『ありがとう』と言ったら微笑んだじゃないか」
「私の父は研究者だったの。その研究はオカルトに近いもので、研究のほとんどは日の目を見ることはなかったけれど。私の『異変』に一番に気づいたのも父だったわ。父は私が世間から浮かないように、その場その場での立ち振る舞いを教えてくれた。あなたの言う『感謝されて微笑んだ』も、父から教わっただけ。感謝の意を述べられたら笑っておくと、相手も悪い気はしないと」
真面目な顔で言うにはなかなかキツい冗談だ。青年が顔をひきつらせていることもおかまないなしに、少女は続けた。
「父はその場しのぎの方法として、世間での立ち振る舞いを教えてくれた。でも、私の異常を治そうともしてくれていたわ。そこで生み出されたのが、これよ」
少女はテーブルにあった小瓶から角砂糖を一つつまんだ。そしてそれを紅茶の中へ沈めると、青年に差し出した。
「昨日と同じ紅茶よ。飲んでみて」
言われるがままに飲んでみると、それは確かに昨日と同じく素晴らしい美味しさであったが、どこか違和感を拭えなかった。
「それ、昨日と全く同じ味がする?」
自分の記憶違いかもしれないと思いつつ首を横に振ると、少女は信じがたい言葉を発した。
「そうでしょうね。だって、昨日とは中の人が違うもの」
中の人、の意味を理解するのに数秒を要した。おぞましいものを口にした恐怖から手に持ったティーカップは指からすり抜け、音を立てて割れた。その零れた液体に触れることも憚られ、青年は三歩後ずさりをした。
「君は、一体なんてことを……」
震える唇から必死に言葉を放つと、少女は青年の思考を悟ったかのように申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。言い方が悪かったわ。その角砂糖には確かに人間の要素が入っているけれど、貴方が思っているようなものではないわ」
「じゃあ、一体何が入ってるっていうんだ」
「これはね……人間の『幸せ』の結晶よ」
角砂糖が入った小瓶を両手で転がしながら、少女は続けた。
「私の父は人間の感情を抜き出し、それを結晶化することに成功したの。感情に触れることで、その感情がどんなものかを理解し、感じられるようにと。悲しみ、恨み、苦しみ……それらの感情を私はそうやって手に入れたわ。でも、どの幸せを飲んでも、その感情を味わうことはできなかった」
そう続ける少女の顔は落胆の色に染まり、声色も暗くなっていった。
「昨日は久々に新しい人と出会ったから、興奮してしまったみたいなの。本当にごめんなさい。新しい人に出会えば、私の『幸せ』も見つかるんじゃないかと思って。普通の人は、人生で何回も幸せを味わうのでしょう? 毎日溢れている、ありふれた幸せじゃきっと駄目なんだわ。人生でたった一度訪れる幸せの絶頂を、私は求めているの。それを飲むことさえできれば、きっと私は幸せを得ることができると思うのよ」
初めは狂気しか感じていなかった願いだったが、そこに懇願にも見える悲しさを青年は垣間見た。負の感情しか知らない人生。その壮絶さは、自分の未熟な人生観から考えのつく範疇ではないと悟った。永遠に『幸せ』の無い世界で生き続ける彼女がこんなにも美しく、周りを幸福にするような容姿をしていることすら、神様の悪戯のようにも思えた。
「じゃあ、僕が手伝うよ。その『幸せ』探し」
青年の言葉を聞いていなかったのか、はたまた聞いていたが理解ができなかったのか、少女はキョトンとして青い瞳で青年をじっと見つめた。
「……本当?」
その真っ直ぐな視線に気圧されながら、今度は真っ直ぐ目を見て答えた。
「うん。君に協力するよ。僕も色んな人の幸せに興味が出てきた」
「ありがとう」
そう言って少女は微笑んだ。それが心から出たものではなく機械的に出たものだと知りながらも、やはりときめかずにはいられなかった。
少女に出会った時点で、関わりを絶つことなど不可能だったのだ。初めて彼女の姿を見た瞬間から、彼女に囚われてしまっていたのだから。
それからというものの、青年は少女に言われるがままに多くの人を屋敷に呼んだ。幸い青年は街では比較的顔が広く、「美味しい紅茶を出す店があるんだ」という誘い文句を疑うものは誰一人いなかった。良いことがあったと喜んでいる者に「お祝いだ」と声をかけては屋敷に誘い、特に何もない者は美味しい紅茶とどこから仕入れたのかわからない異国のお菓子でもてなした。少女を見て不機嫌になる男は居なかったし、美味しい菓子とおべっかに喜ばない女も居なかった。そうして人を屋敷に呼び入れては感情を抜き取り、少女と青年は着々と『幸せ』を集めていった。感情の抽出はその時の感情のみに作用するため、少女に感情を抜き取られた人間が廃人になるなんてことはなく、ただその時抱いていた幸福を忘れてしまうだけであった。それでも青年は戸惑い罪悪感を感じたが、あまりにも簡単に幸福を感じる人間を見ていると少女が不憫でならなくなり、次第に胸の罪悪感は影を潜めていった。
「私の名前はアイって言うの」
『幸せ』集めの合間、二人で紅茶を飲んでいるとき、おもむろに少女はそう言った。
「この辺では珍しい名前だね」
「まだこのお屋敷に来る前は、みんなにこの名前はぴったりだと言われたわ。感情の無い、まさに『AI』だ、とね」
アイはフッと笑み零した。心からの笑顔が自嘲から来るものだなんて、何て悲しいのだろう。うまい返しが思いつかず、青年はその言葉を聞き流した。
「僕の名前はルイって言うんだ」
「あら、貴方もこの辺では珍しい名前なのね」
「父さんが日本人なんだ。だから漢字でも通じるような名前になったらしい」
「お父様は東洋の人なの。随分遠くからこっちにいらしたのね。」
「こっちに旅行に来たときにたまたま出会った母さんに一目惚れして、移住して結婚を迫ったらしい。その情熱を僕にもわけて欲しいくらいだ。それに、日本でもルイなんて名前は珍しいみたいだよ」
「でも、素敵な響きだわ。貴方にぴったりね」
さらりとこのような発言をされルイは少し恥じらう。彼女の悪いところは、こうやってなんの気なしに人を喜ばせてくるところだ。彼女自身はどんな言葉をかけても決して喜ばないというのに。
「そうかな。理由を聞いても良い?」
「貴方って、優しい王子みたいな感じがする。誰にでも優しくて、私みたいなのも放っておけなくて、顔立ちの整った素敵な男の子」
「買い被りすぎだな。少なくとも、容姿を褒められたことなんか一度もないけど」
「それは貴方が普段男の子とばかり話していて、高嶺の花のような存在だからじゃないかしら。貴方がここに連れてきた女の子たち、みんな貴方の顔を見てうっとりしていたわ」
羨ましくて妬みそうになるくらいにね、とアイは付け足した。確かに、ラブレターらしきものを受け取ったことの一度や二度はある。しかし、だいたいはなぜか数日後に「ごめんなさい。やっぱりなかったことにして欲しい」と返却を求められ、結局今の今まで女性とお付き合いというものをしたことなんてなかった。ルイはそうアイに話すと、「やっぱり女心がわかってないのね」と呆れ顔で言った。
それから数ヶ月が経ち、街中の同年代にはあらかた声をかけ終わってどうしたものかと考えあぐねていた。そのとき、ルイはアイと出会った時の言葉を思い出した。
『違う、これじゃない』
彼女は飲んだ瞬間にこれは『違う』と断言した。ということは、彼女には感情を飲めばその類の幸せが『不正解』であるとわかるということだ。今まで同じ手法でさまざまな人間の感情を抽出してきたが、もしかして『人』ではなく『感情の種類』に正解があるとしたら? ルイは慌ててアイの屋敷へと向かったのだった。
「……ということで、もし良かったら今まで飲んだ『幸せ』を僕に教えてくれないか? 正解のヒントはなくとも、不正解の法則でも見つかれば、より効率的に集めることができると思うんだ」
いつになく食い気味のルイに、アイは少し戸惑いを見せた。しかし、ルイの話はとても信憑性のある仮説だと思い、ルイを屋敷の奥の部屋へと案内した。ルイはいつも同じ部屋にしか通されていなかったため、アイからの信頼を少しは得ることができたのかな、と密かな達成感を得ていた。と同時にそこそこ長い付き合いにも関わらず今まで通してくれなかったのは、やはり彼女は自分を信用していなかったのだろうかと落胆した。部屋への道中でさりげなく「なぜ今まで他の部屋に入らせなかったのか」という旨を尋ねたところ、アイは「他の部屋は使っておらず、自分すら入らないから入れる必要もなかった」とあっけらかんと答えた。あまりにくだらない理由にルイは拍子抜けすると同時に、「別に入りたかったらどこでもお好きにどうぞ」と続いた返答を聞きその信頼感に僅かに心を躍らせた。そんな会話をしているうちに一階の奥の部屋へと辿り着いた。屋敷の入り口と同じくらい大きな扉を開けると、そこは吹き抜けになっており、図書館のように壁一面が本棚になっている空間が広がっていた。
「ここは父の研究書が置いてあるの。父が亡くなってからは私が引き継いでいるわ」
ルイに説明をしながら、アイはある本棚まで真っ直ぐ進んだ。そして、数冊の本を抜き出すと、何かレバーのようなものを引っ張った。すると壁に設置されていたはずの本棚の一部がくるりと回転し、小さな部屋が現れた。黙って入っていくアイに、ルイもおそるおそるならった。
「ここは私と父の秘密の研究室。貴方にはあっさりばらしてしまったけれど、こんな非人道的な技術とそれを会得するための実験の痕跡を見られたら、私たちはまず生きていられなくなる。……以前は当時住んでいた家の一室で実験を行っていたの。でもそれが政府にばれて、この遠く離れた土地まで研究資料とともに逃げてきた。ここならそう簡単に見つかるはずもないし、おかげで研究データと私は無事だったわ」
でも、と話を続けようとしたアイの言葉が詰まる。その先は、聞かなくても容易に想像ができてしまった。娘を想い禁術ともいえる領域の研究に手を出した父親と、それを狙う大きな組織の力。その結果の行き着く先なんて、穏やかなわけがない。必死で言葉を続けようとしているアイを、ルイは無言で制した。アイはルイが察したことがわかったのか、控えめに頭を下げると、部屋の奥から彼女の頭より二回りほど大きい瓶を持ってきた。
「この中に、今まで集めたすべての『幸せ』の結晶の欠片があるわ。そして、こっちがその記録をまとめたノート」
瓶の隣に置かれたノートを手に取ると、中にはびっしりと文字が刻まれていた。達筆な文字が続くなか、途中から突然拙い字に変わった時期から、アイ一人での研究が始まったのだろう。ルイはアイやアイの父が書き残した当時の状態を確認し、それを一人一人の感情とひたすら照らし合わせていった。そして、ルイは一つの可能性を見出した。
「アイ、君に足りないものがわかったかもしれない」
「本当に? 一体なんなの?」
「それは、『愛』だよ」
「愛?」
「アイに必要だったのは、ただの幸福じゃない。一日に何回も訪れるような、そんな陳腐なモノじゃ駄目だったんだ。人生でたった一度、二度と出会えないような素敵な人との出会い。それを飲めば、君は『幸福』を手に入れられるかもしれない」
意気揚々と話すルイとは対照的に、アイの顔は少し曇っていた。
「でも、それはできないわ」
「どうして?」
「だって、今まではちょっとした幸せを分けてもらっていただけ。人生にさして影響の出ない範囲で、お裾分けをもらっていたに過ぎないわ。でも、貴方の言うように『愛』を奪ってしまったら、その人の人生を狂わせてしまう。それに、当人は覚えてないだけで済むかもしれないけれど、その相手はどうなるの? 好きな人が共に過ごした時間を、ある日突然忘れてしまうのよ。そんなことしたら、私一人のために他の人の人生を奪わなくてはならなくなるわ」
アイの言葉にルイは返答の言葉を詰まらせた。しかし数秒の逡巡ののちにこう言った。
「なら、アイが運命の人になれば良い」
「私が?」
「そうだ。まず、これから屋敷に呼ぶのは男に限定する。アイの容姿に心を奪われない男なんてそういない。そこでアイが微笑みながら相手を持ち上げて会話を盛り上げた日には、そいつの心は完全にアイのものになったと考えてまず間違いない。でも、そこで感情をとったら今までと同じになってしまう。だから、次からは同じ奴を複数回呼ぶんだ。何回かここに通わせて、その間にアイも自分のことを好きなんじゃないかと錯覚させる。もちろんそこで愛が芽生えれば目的は達成できるし、できなくても相手の恋心が実ったと錯覚させれば『愛』の感情をとることができる。取られたところで相手はアイのことを忘れるだけだから、なんのデメリットもない。どうだろう?」
「なるほど……確かにそれなら、誰も傷付かずに済みそうね」
ルイの説明に納得がいったのか、アイの目は良心の呵責を抱えた憂いを帯びた目からたちまち研究者の眼差しに変わっていた。
「まだ会いもしない人のことを心配するなんて、アイは優しいんだね」
ルイが思わずそう零すと、アイはくすりと笑って返した。
「貴方こそ、そんな私を放っておけないくらい優しいくせに」
本当に変わっているわよね、と話すアイの笑顔を見て、ルイはなぜか心が痛くなった。しかし、その痛みの正体には結局気づくことができなかった。
それから数日して、ルイは一人の男を屋敷に連れて行った。リューという、普段男女問わず多くの人間に囲まれており、自分が周りから愛されていると知っているような人間だ。変に恋愛経験がなくて奥手すぎるのも困るし、逆に慣れていても手荒なことをする奴をアイと引き合わせるわけにはいかない。適度に恋愛を嗜んでいて、理想が高く、尚且つ目標を実現するために努力を積み重ねる人間。ルイの求める人間像に合致したのが、彼だった。周囲の空気を読んでいる自分とは違い、周りの人間を心から好いてよくしているリューは人望もとても厚かった。ルイが初めてアイのもとを訪れるきっかけとなった日に、ついていくと提案してくれたのも彼だった。そのせいか彼を狙う女性も多くいる。しかし、少なくともこの街の誰よりもアイの方が魅力的であるに違いない。多くの女性に好意をぶつけられ、それを断ることにも申し訳なさを感じてしまい傷ついて疲弊しきっているリューに、「素敵な人を紹介する」と言ってルイは屋敷へと招待した。
初めてアイを見たリューはその美しさに驚いたものの、それを露骨に態度に出すことなく丁寧に挨拶をした。アイは予定通り終始微笑みを絶やさず、かといって普段彼の周りにいるような女性のように熱烈なアプローチをすることなく、ただ静かにリューを受け入れた。それが初めての経験だったのか、次第にリューは饒舌になっていった。日が傾きかけても別れを惜しみ、「そろそろ出ないと森を抜けられなくなる」とルイが半ば強引に連れ出すまでアイとの会話を楽しんでいた。ルイは「やはり自分の人選に間違いはなかった」と喜び、実験の成功を思い描いて気持ちを昂らせた。
二回目のお誘いは、敢えて少し時間を空けた。会わない間にアイのことを考え、想いを募らせて欲しいという魂胆からだった。案の定その作戦は功を奏し、それまであまり話したことのなかったルイに積極的に挨拶をしてくるようになった。そしていよいよルイの方から声をかけると、返事をうわずらせながら詰め寄ってきた。彼女の好きなものは、嫌いなものは、名前は、生まれは、生い立ちは。森に行く道中でさまざまなことを聞かれたけれど、ルイは全て濁した。そしてその日も相変わらずアイは穏やかに微笑み、リューとの時間を過ごした。前回と違うところといえば、前以上に彼が積極的に会話をつなぎ、アイは殆ど聞き役に徹していたことくらいだろうか。こうしてルイの綿密な計画通り、リューは着々とアイへの想いを募らせていった。街でも上の空になっている彼を見て、恋人ができたのではないかと慌ててアプローチをしようとした女性には、ルイがこっそり色仕掛けをして彼を守った。そうすることでリューの周りには群がることしかできない彼の苦手なタイプの女性たちと、アイしか残らなくなった。
「そろそろ、彼に対して私からもアプローチをした方が良いかしら」
彼との五回目のお茶会を前にしたある日、アイはルイに尋ねた。確かにそろそろこちらからも行動を起こさないと、「脈がない」と諦められてしまうかもしれない。そうすれば、今までの努力がすべて泡沫のように消え去ってしまう。
「そうだね。じゃあ次会うときに、アイの方からも好意を示してみようか。できそう?」
「自信はないけど、頑張ってみるわ。ルイがとっても素敵な人を見つけてきてくれたおかげで、少なくとも私は彼に好意を抱いているみたいだし」
好意という言葉に一瞬驚いたものの、すぐに「良い人」という意味合いだと気づいた。この調子ならもしかして感情をとらなくてもアイは『幸せ』を手にできるのではないか、とルイは自分のことのように嬉しく思った。その時一瞬胸がちくりと痛んだ気がしたが、一瞬でおさまったその痛みの行方をルイが気にすることはなかった。
そしていよいよ当日、迎えに行くと言った時間よりも三十分も早くにリューはルイの家にやってきた。急いで支度をするからあと十五分待ってくれと頼み急いで玄関に出ると、待っている間に買ってきたのかリューは手に薔薇の花束を携えていた。いつもは部屋で椅子に座っているアイが、今日は屋敷の入り口までルイたちを迎えにきていた。恥ずかしがりながらも彼はそこで片膝をつき、花束を差し出した。驚きながらも笑顔で受け取りお礼の言葉を述べるアイを見て、リューの顔も薔薇のように真紅に染まっていった。
その瞬間、ルイの心は燃え盛るような激しい憎悪に侵された。なぜなのかはわからない。でも、リューとアイが一緒にいるところを見ていると、気が狂いそうになった。いや、事実狂っていたのだろう。次の瞬間、ルイは花壇のレンガを手に取ると、それをリューの頭めがけて振り下ろしていた。
「危ない!」
アイが悲鳴に近い声をあげる。その声が聞こえ、ルイは咄嗟に腕の軌道を変える。腕はリューの耳を擦り、手に持っていたレンガは勢いよく地面に叩きつけられ、角が少し欠けていた。アイはリューとルイの間に立ち、その場でおろおろと慌てていた。
「何をするんだ」
リューはルイに怒号を浴びせる。自分でもなぜこんなに恐ろしいことができたのか、理解ができなかった。謝ることすら許されない雰囲気の中、ルイは何かに取り憑かれたかのように屋敷の扉を開け、無我夢中でその場から立ち去った。
「こんなところにいたのね、探したわ」
一時間ほど経って、アイがやってきた。ルイはというと相変わらず書庫の隠し扉の研究室にある椅子に座り、呆然としていた。
「どうしてあんなことをしてしまったのだろう。リューに恨みなんてひとつもなかったのに」
「とりあえず、彼は落ち着かせて帰らせたわ。一応シナリオとしては、『薔薇アレルギーの私にいきなり花束を渡そうとしたので、私の手に当たらないよう咄嗟に避けようとした』と説明しておいたわ。まあ、かなり疑っていたけれどね」
なるほど、確かに筋は通っているがなかなかに無理がある話だなとルイは思った。だとしたら手に持っていることに気づいた時に言うべきだし、避けるだけなら手で払えば済むだけの話だ。
「どっちにしろ、しばらくは貴方は針の筵状態でしょうね。騒ぎが落ち着くまでここで過ごすと良いわ。ここに続く道は、植物でカモフラージュしておけばたった数回来ただけの人間にはわかりっこない。せいぜい夢だったと言われるのがオチね」
アイの優しさがルイには余計辛かった。自分がなぜあんな行動に出たのか、冷静になって考えてもどうしてもわからなかった。そこでふと、アイに尋ねた。
「ねえ、アイは『感情』を抽出できるんだよね?」
「ええ、そうよ」
「それなら、今の僕の感情を、抽出してみてくれないか?」
負の感情は不味いから飲みたくないのだけれど、と気乗りしないアイに無理を言い、「貸し一だからね」と渋々了承させた。以前に一度抜かれたことがあるが、いざ改まってとなると自分の一部がぬるりと出ていくような生ぬるい気持ち悪さに襲われた。抽出した感情は角砂糖のような白い立方体になり、アイはそれをティースプーンに乗せると、ゆっくりと紅茶の中に沈めた。はらはらと立方体が崩れ、やがて溶け切って影も形もなくなると、その紅茶をくいと飲んだ。やはりあまり美味しいものではないらしく、アイは少し顔をしかめてみせた。
「やっぱり負の感情は美味しくないわね。もうこりごりだわ。この味は……憎悪、困惑、そして……嫉妬、かしら」
自分で気づけなかった感情の正体は、嫉妬だったのか。上辺では納得したつもりでも、喉につかえたようにすっきりしないままだった。自分がリューに嫉妬する部分。秀でている部分だけを挙げれば、それは数え切れないだろう。容姿、頭脳、スポーツ、社交性。どの面でも彼は頭ひとつ抜きん出ており、多くの人間の羨望の対象であった。ルイ自身もそう思ったからこそ、アイの相手として彼を選んだのだ。でも、だからといってリューに恨むほどの嫉妬をする理由は見当たらなかった。なぜなら、彼は秀ですぎていた。目立つことが苦手で波風立てずに生きていきたいと願うルイにとって、彼のスペックは眩しすぎるのだ。負け惜しみなんかではなく、素直にそう思っていた。はずだった。それは今までなんでもそつなく無難こなしてきたルイにとって、初めてと言っても良いほどの難問であった。その後はアイの好意に甘えてそのまま数日間はアイの屋敷で過ごさせてもらった。しかし、アイと会ってもどう接して良いのかがわからず、ルイは貸してもらった二階の角部屋か図書館の隠し扉にある研究室に籠っていた。
数日後、ルイは「一度家へ戻ってくる」と言い残してアイの屋敷をあとにした。アイはここ数日のルイの様子から心配し声をかけるが、大丈夫の一点張りなので諦めて見送った。それから数時間が経った頃、ルイは戻ってきた。数日間お風呂にも入らず浮浪者のようだった髪は整えられ、服はいつもよりかなり上等なものを纏っていた。屋敷を出るときとは裏腹に恥ずかしがりながらも爽やかな笑顔を浮かべ、手には薔薇の花束を携えていた。
「ただいま、アイ」
「おかえりなさい、一体どうしたの」
あまりの変貌ぶりに正気に戻ったと思うべきか、とうとう頭がおかしくなってしまったと思うべきかアイは頭の中で思考を巡らせる。そんなアイの悩みに気づいているのかいないのか、ルイはアイの目の前で片膝をつくと、薔薇の花束を差し出した。
「リューと同じ花はどうかと思ったけど、やっぱり告白にはこの花かと思って。僕は、あの時抱いた嫉妬の理由をこの屋敷でずっと考えていた。そして、ようやくその答えが出たんだ。リューはとても好青年で、きっとアイと結ばれれば二人とも幸せになれると思った。それが僕の望む世界だと思っていた。でもそれは違ったんだ。アイが心から笑いかけるのは、たとえ心から笑えなかったとしても、その目を向けるのは僕だけでいて欲しかったんだ」
他人に奪われそうになって初めて大切さに気づくなんて、馬鹿な恋愛小説の主人公みたいだろう? とルイは笑った。
「リューがアイを好いているのはすぐにわかった。でも、アイが『好意を持っている』といった時、心がざわついた。花束を受け取ろうとしたアイを見て、本当にリューのことを好きになってしまったのかと怖くなった。今思えば、初めて見たときから、僕は君に恋をしていたんだ」
ルイの真っ直ぐな想いを、アイはただ黙って聞いた。
「だから、もし許されるのであれば、僕をーー」
その先を言おうとしたルイの顔が一瞬こわばる。背中に激しい痛みを感じて空いた手をやると、その手はべったりとついた赤黒い血で染まった。
「なん、で」
「やっぱりそういうことだったんだな」
その場に倒れ込んだルイの後ろに立っていたのは、リューだった。身体はやつれ、目は血走り、一瞬では彼だと判別することが難しいくらいにその相貌は歪んでいた。
「おかしいと思ったんだ。あれからお前を見かけないと思ったら、こんなところに隠れていやがった。あれから僕は何度もこの屋敷へ通った。でも、入り口まで辿り着くことができなかった。みんなには疲れているだの幻だのと言われたよ。でも僕は諦めなかった。そして今日、ようやくここに辿り着くことができた。驚いたよ、やっぱりお前も彼女が目当てだったんだな!」
そういって高笑いをすると、リューはルイに刺さったナイフを抜き、横たわるルイの腹部に突き立てた。うっと小さい呻き声をあげるルイを見て、リューは再び笑った。
「お前も僕に同じことをしようとしたんだ、自業自得だ!」
リューは何度もルイの身体へナイフを突き立てた。愛する人に会えなくなったことよりみんなに『可哀想な人』扱いされたことが余程彼のプライドを傷つけたのか、その目にはもうアイへの恋情はなく、ルイへの復讐心で染まっていた。そうしてルイの声が上がらなくなると満足したのか、「ここで静かに野垂れ死ね」と吐き捨て、アイには目もくれず足早に去っていった。リューの姿が見えなくなったところで、アイは震えながらルイの身体に触れた。すると微かではあるがぴくりと身体が動いた。慌てて救護用品を取りに行こうとするアイを、ルイは引き止めた。
「……最後に聞いて欲しい。さっきの続きだ。出来ることなら君に愛を教える人間が、僕であって欲しかった。それと、君は以前自分の名前を『AI』だと揶揄されたと言っていたが、僕の父の祖国では、アイは『愛』という意味なんだ」
内臓を刺されたのか、ルイの口から血が吐き出される。しかし、口内に溜まった血を吐き出してルイは続けた。
「やっぱりアイの探す幸福は愛で間違いなかったんだ。だって、君こそ『愛』なんだから。だからきっと君の愛は……見つか……る……」
その瞬間、アイは直感で思った。『これ』こそが正解だと。素早く呪文を唱え、感情を抽出する。紅茶を淹れる手間も惜しく、そのまま口の中へ放り込んで舌の上で転がした。
「見つけた……私の『幸福』! これだわ! ああ、感動ってこんな気持ちなのね。貴方のおかげよ……」
まるで小さな子どもが新しいおもちゃをもらったときのようにひとしきり騒いだアイは、ふとルイの方を見た。その身体は冷たく、辺りにつくられた紅い血溜まりには薔薇の花びらが浮かんでいた。
「どうしたの? ねえ……あ」
そこでアイは思い出した。ルイが深手を負っていたこと。その手当をしようとしていた最中にルイに引き止められたこと。そして、瀕死のルイに手当てもせずに感情を奪って、彼を死なせたこと。
「嘘でしょ? 起きてよ、私ようやく『幸福』を手に入れたの。貴方のおかげなのよ」
そのとき、アイの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。それは一筋に頬を伝い、口の端へと辿り着いた。
その涙は、絶望と、愛しさの味がした。
「ああ……これが人を愛するということなのね……私は愛する人を自らの欲望で死に追いやった。ただの……ただの一度も、名前すら呼ばずに」
親しい人間を作るな。これがアイの父からの教訓だった。自分と親しくなれば相手が傷つく。そして相手と距離を取るためには、名前で呼んで特定の人物として自分の中で区別しないこと。父亡き今も、その教えを律儀に守ってきた。その結果、両思いになったはずの、恋人になれるはずだった人の名前さえ、呼ぶことはなかった。
「知らなかったわ。愛する人が自分を愛してくれるって、なんて嬉しいことなのかしら。そして、『愛』がこんなに辛い思いをするものだなんて、考えもしなかった」
自分の知らない世界は幸福に満ち溢れているに違いない。アイはそう思っていた。しかし、彼女は知った。喜びを知ることで得る哀しみもあるのだということを。
「こんなことなら、せめて一度くらい名前を呼んでおけばよかったわ」
アイはルイの胸に深々と刺さったナイフを抜き取ると、ルイの亡骸を抱きしめた。
「さようなら。愛しているわ、ルイ」
ルイの耳元でそう呟くと、アイは抜いたナイフを自らの胸に突き刺した。
それから屋敷には静寂が訪れた。あらかじめ屋敷に通じる道は植物で塞がるように手筈を整えておいたので、二人の死体が事件として騒がれることはないだろう。やがて、手入れをする者のいなくなった花壇は荒れ果て、草木は花壇を超えてそこらじゅうに生えだした。血が抜け切った死体は腐敗し、やがて土に還った。長い時間をかけてそれは肥料となり、空から入ってきた鳥たちが運んだ種がそこから芽を出した。
やがて、二人は花の棺で誰からも邪魔されることなく共に永遠の眠りについた。
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