前編

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前編

   真っ白い男は、真っ白いアトリエの中で、じっと、目の前にたたずむ絵画を見つめていた。特別きれいなわけでもないが、几帳面に絵具や絵画の資料、真っ白なキャンバスが整頓されて様々な場所に散在していた。唯一汚れているといえば床と、床に置かれたパレット位なもので、パレットの上には旧友からの手紙が絵具まみれになって放置されている。キャンバスの目の前に座り込んでいた男は、だらしなく立てた右足に全身を預けると、だらりと座り込んでしまっていた。右手は行く場もなく床にになげだされているが、画家としての意地であるのか左手はかろうじて加筆用の絵筆がしっかりと握りこまれていた。人の身長は優に超えたキャンバスは青色を基調としてからりとした廃墟が描かれており、怪しく美しい気配を放っている。絵画を見つめる男の瞳は惚け、どろどろと渦巻いて、綺麗な茶色い瞳は泥水の様に濁ってしまっていた。換気のためにあけられていた窓からは、山の澄み切った空気が入り込み、肩まで伸びた髪の毛を撫でさっていく。男が細く息を吐ききった直後、突然に男の目前が明滅した。キャンバスに描かれた美しい景色はみるみると崩れてゆき、男の頭には割れんばかりの耳鳴りが響き渡る。いつかの都会の喧騒が思い出されて頭に反響している。耳もとではざわざわと不明瞭な人々の声がした。左手に持った筆を折れんばかりに握りしめたせいか左腕がぶるぶると痙攣している。痙攣が全身に回り今にも崩れそうになると同時に、世界が暗転した。 ___お前のせいだ___  ふと意識が上昇した。ハッとしたように頭を乱雑に掻きむしり、左手に持った筆を明後日の方向に投げた。筆は軽快な音を立てながらも、筆に着いた絵の具が留め具となって男の視界の隅に居座っていた。意味もなくその事実に言いようのないイラつきを覚えたが、かき消すかのようにインターホンがけたたましくなる音が聞こえてきた。男はゆっくりと立ち上がると、鳴り続けるインターホンを止めるために玄関に向かって歩き出した。 「よぉ。」 「あぁ、おはようございます。」 五十を過ぎても、驚くほど元気な男、関谷トオルに、絵の具のついた手を気にも留めずに、真っ白い男、白路暁は朦朧としながら答えた。 「今日も死んでなかったか。元気で何よりだ。」 「冗談。」 「はは、まあいいや。ほれ、これが当分の日用製品と食料。頼まれていた絵の具とメディウムだ。」 関谷は傍らに置いた大きなスーツケースをばんと叩くと、白路に手渡した。 「ありがとう、おじさん。」 「いいんだよ。好きでやってることだ。」 関谷のその言葉に白路は微かに微笑む。スーツケースを受け取ると、その重さに朦朧としていた意識が微かに浮上した。 「……あ、スーツケース。」 「おう、待ってやるから行ってこい。」白路がスーツケースを取りに家に戻るのを、一瞥し、関谷は懐から煙草を一本咥えた。かなり重いニコチンに頭がすっきりとしたところで、慌てたように息を切らしながらスーツケースを抱えて走ってくる若人に意地の悪い笑みを浮かべた。 「お前さん、運動してないんか。」 「だったら何?いいじゃん。おじさんこそ、煙草は体に悪いんじゃない?」 いたずらっぽい笑みを浮かべて火のついた煙草の先をつつこうとした手をぱしりとつかんだ。 相変わらずの貧弱さに思わず苦笑してしまっていた。 「ちゃんと食えよ。」 「わかってる。これ、替えのスーツケースと、これ、買ってきて欲しい物。」 「おう、確かに受け取ったぜ。」 「じゃあね。」 関谷はスーツケースとメモを受け取ると、白路の家を後にしようと歩みだした。ピタリ。何かを思い出したかのように立ち止まり、そこそこ素材の良い上着のポケットから手紙を取り出し白路へと手渡した。 「待った、これを忘れてた。」 「なにそれ。」 白路は受け取った手紙を静かによむと、おもむろに手にしていた手紙を静かに折りたたみ、ぞっとするほど美しい冷えた視線を関谷の目をまっすぐに見つめた。関谷は白路の目をじっと見返すと、やにでくすんだ歯を見せて笑った。その様子に目を伏せ、ため息一つ吐いた。 「どうして、僕が。」 「ダメか?」 「おじさんの頼み、断れるわけないじゃん。……でも、期待しないでよ。」 「お前さんなら安心だ。期待して待ってるよ。」 「ほんと、いい人。」  山奥の誰も寄り付かないような場所に、人目を忍ぶように建てられた一軒の家があった。外見はとても立派な白い平屋で、山に沿って作られたまるで山に自然と生まれてきたのではないかというほどに不思議と山に溶け込んでいた。家の前はそこそこ広い庭のようなものが存在しているが、家主はひどく無頓着なようで一切の手入れがされている様子はなかった。人がいそうにもないが、ふと人の気配が揺らいで見える。そんな家に、一人の男がスーツケースを抱えて訪ねてきた。道中の草をかき分けたご自慢のジーンズには引っ付き虫がこれでもかと張り付き、無謀にも半袖でやってきたむき出しの腕にはいくつものかすり傷がにじんでいる。獣道のような道なき道をかき分けてたどり着いたそこは武骨で少し寂れた石門に守られていた。 「ごめんください。ごめんください、誰かいませんか?」 青年は声を張り上げ、居るかもどうかわからない住人に呼びかけたが、返事は帰ってこなかった。青年は声をさらに張り上げるために息を吸った。 「こんにちは。」 突如、後ろから声がした。柔らかいながらも芯の通った怪しさのある静かな声だった。青年が立っている背後の、すぐそばに人の気配がした。背後にいた人物はゆっくりと眼前に回ると、柔い雰囲気の男が青年の顔をのぞき込んでいた。真っ白い服に包まれた肢体は驚くほどに弱弱しく細い。しかし、それに反するように醸し出す雰囲気は冷たく鋭い気配が隠し切れないほどににじみ出ていた。 「ごめんね、驚かせて仕舞ったね。」 目の前の男はくすくすと笑うと、青年の顔に細く美しい手を寄せた。 「君が、下宿希望者?あってる?」 「はい。」 「君は?僕は白路暁。」 「俺は。」 「話は聞いてるよ。さ、入って。こっちだよ。」 白路は口をはさむ機会も与えずに青年の手を引いた。手入れのされていない庭を抜ける最中、チクチクと足が痛み、ここがいかに自然に近い場所であるのか思い知らされた。あけ放たれた縁側を超えたとき、白路が素足でここまで歩いてきたことに気が付いた。青年が案内されたのは言葉を失うほどに散らかったリビングだった。日本家屋を基調にした白路の家は、庭に面した引き違い壁はすべて開け放たれ、床には庭から入ってきたであろう土が散乱していて、土にまみれたラフスケッチが山の様に積まれ、至る所に散っていた。手入れされていない植木鉢は、それでも生命力は強かったのか傾き、葉が傷つきつつもしっかりと根付いていた。かろうじてごみはごみ箱にきちんと捨てられていたが、一見するととても人が住んでいるとは思えなかった。まさかと思いダイニングキッチンをのぞくと、飲みかけのペットボトルやかたずけられていない食器が、シンクから恥ずかしそうにちらりと覗いていた。 「まじか。」 異臭は放っていないところを見ると、日にちが経っていても二、三日といったところだろうか。これから暮らしていく住居の惨状を、なんとも言えない気持ちで見つめていた。 「どうした?」 「いえ、何でも。」 「そう。場所の説明、良い?」 こくりと青年はうなづいた。 「こっちはリビングでここはキッチン。自由に使ってくれて構わないよ。食材  はそこの冷蔵庫。二、三週間ごとに届けてもらってるから、配分だけ注意し  て。」 「わ、かりました。あの……」 「ん」 「荷物は」 白路は微笑みながら静かに二階を指していた。 「屋根裏において。居住できるくらいのスペースはあるから好きにして。えー……と」 「鑑です。鑑昏。」 「そうそう、鑑クン。鑑昏君だった。」 白路はその場でニコニコと微笑み青年、鑑に向かって言い放った。 「これからしばらくの間、どうぞよろしく。」 鑑は白路の笑みにそっと一礼をし、荷物を置きに屋根裏部屋へ向かった。ぎしり、と足の裏に響く独特の歪みは、この家が意外にも古い家という事が伝わってきて、自然と体がこわばってしまった。用意されていた屋根裏部屋は、一階の惨状とは打って変わって煩いくらいにきれいに整頓され、静寂が存在した。壁には小さな小窓があり、窓のふちでさえ埃一つないほどにピカピカと輝いていた。とても長年放置されていたとは思えないほど掃除が行き届いているためか、窓から差し込む太陽の光もあってか妙に神聖で圧倒されてしまっていた。床は板張り独特の、暖かさの残る冷気が漂ってきた。夏場もあってかその空気がとても心地よく頭がぼんやりと「ここに住むという」事実に対して喜んでいた。一番天井の高い場所は男一人が立てるほどには高く、多少の作業には困らなそうであった。部屋には小さいソファや本棚、クローゼットが付いていた。白路の親切か低い木製の、ラックと書きものくらいはできそうな真新しい机が用意されていた。鑑が日課としている日記をつけることも余裕でできそうな環境に、予想以上の好待遇に自然と肩の力が抜けていた。 「鑑クン?」 白路の声が階下から聞こえてきた。荷物を置いて白路の待つであろうリビングに 急ぎ訪れると、痩せて歪な人参と小さなジャガイモを握りしめた白路が、笑顔で鑑を待っていた。 「鑑クン。」 「はい。」 「今、とても日が高いね?」 「はい……?」 白路の言いたいことがわからず、鑑は思わず体をこわばらせた。 「ところで、料理は出来るかい?」 「はい?」 白路は笑顔で両手に抱えた野菜を鑑に手渡した。 「僕は肉じゃががが食べたいな。」 鑑は思いがけない注文に思わず素っ頓狂な声をあげた。 「マジで?」  鑑は作ったこともない肉じゃがを、一生懸命作っていた。鍋には冷蔵庫から取り出した鶏肉と慣れない包丁さばきで何とか皮をむいた不格好なジャガイモと、適当にざく切りにしたニンジンを醤油と砂糖で煮込んでいた。肉じゃがは若者にも人気の食べ物とはいえ、ろくに煮物を作ってこなかった鑑にとっては、肉じゃがに最適な野菜の形を思い出すところからしなければならなかった。ジャガイモの皮を剥いたは良いが、肝心のジャガイモは歪に抉れて川辺の岩のような滑らかさとは程遠いものが出来上がり、やせた人参を切るときはそもそも皮を剥くという考えに至らずそのまま刻んだ。一生懸命焦げ付かないように鍋をかき回しているが、どう見ても味が染み込んでいるとは思えなかった。鑑はどうにも胃を捻じられるような不快感をそのままに、大皿へと出来損ないを移すことにした。肉じゃがを携え、リビングに向かうと、ダイニングテーブルの上に積まれた紙類をせっせと束ね、床下へと置く白路の姿が見えた。鑑は黙ってテーブルの上に肉じゃがを置くと、白路があらかじめ用意していた箸を手に取り黙って肉じゃがを取り皿に盛り付けた。白路と鑑はダイニングテーブルをはさみ向かい合わせで座っていたが、間には静寂が漂っていた。白路がいつの間にか炊いていた白飯と、冷蔵庫から取り出した漬物をお供に、ただただ無言の時間が流れていた。鑑が作った肉じゃがは決して美味しいと言えるような代物ではなく、特に鑑は人参独特の野菜臭さと、じゃくじゃくとした肉じゃがを噛みしめながら、空気ごとそれらを無理やり飲み込んだ。白路が急に箸を置いた。鑑はその様子を見て体に緊張が走った。 「おいしくないね。」 からりと白路は言い放った。その目はいきなり昼食づくりを押し付けられた鑑に対するねぎらいなどなく、言って当たり前、というような。淡々と事実を述べたのだ。 「直球だな。あんた。」 そのいいように怒りが湧き上がる。頭がかーっと熱くなり、目の奥が燃え上がった。目の前がぼやけ目玉が後ろに巻き込まれていく感覚が芽生えた。 「これから一緒に生活するのに遠慮なんて必要かい?」 その言葉に、いくらか冷静になった鑑は、目の前のすました顔に吐き捨てた。 「人がせっかく作ったってのにお世辞の一つも言えないわけか。あんた最低ですね。」 「今遠慮して仕舞えば、これからずっと遠慮し続けなければならないんだよ。そんなの、窮屈すぎるだろう。めんどくさい。」 「じゃあ、俺も言わせてもらいます。あんた、ほんとに此処でずっと生活してたんですか?汚すぎる。このままじゃ俺は生活できないです。」 「そうかい。君、とても正直な人だね。お世辞とか使えないのかい?」 鑑はひとつ、深呼吸をすると、足元に落ちているスケッチを一つ、拾って白路に手渡した 「お互い様。そっくりそのまま返しますよ、作家サマ。」 「…………。」 白路は黙り込み、漬物を箸でつまみ上げた。鑑は急いでご飯をかき込んだ。この気まずい時間を早く終わらせたかった。続くように白路もわずかに残っていたご飯を黙って咀嚼している。鑑は使い終わった食器を積み上げてキッチンに向かい、低い声で白路に声をかけた。 「貸して。」 白路は不思議そうに首を傾げ、じっと鑑を見つめる。 「……ん?」 「洗うんで。食器、ください。」 「ん。ありがとう。」 「……お礼は言えるんだな。」 「ひどいな、君は。」 白路はふにゃりと笑い、残っていた肉じゃがをすべて平らげ食器を手渡した。 「人が作った料理にケチをつけたんだ。それくらい言われて当然です。」 「そうかい。面白いね、君。」 鑑は食器を洗いながら流れる水の音を静かに聞いていた。かたんと洗い終わった食器の先は放置され続けていた食器に当たり無様な音を立てた。放置された食器には乾いた米粒が張り付いて石の様に固まっていた。すぐに汚れは落ちないことは明白である。鑑はため息一つ吐くと、食器を水につけ、放置されていた飲みかけのペットボトルを次々と流しにぶちまけていった。 「あ。」 短い悲鳴が聞こえたと思ったら、辺りには異臭が立ち込めていた。甘ったるい鼻の奥に来るもやもやした匂いは胸からの不快感を一気に押し上げた。 「くっっっっっっっさ! どれだけ放置していたんだ。いつからだ。」 「さぁ、いつのだろうか。」 「まじで言ってる?。」 「マジの大マジだよ。」 「芸術家ってのはこんな無頓着な人間ばかりなのか」 鑑は予想していたよりもずっとひどい回答に思わず顔をしかめた。見た目よりもずっと放置され続けていた内容物に自然と怒りがわいた。白路は鑑の怒りなど気が付いているのか、少女の様にすんなり答えた。 「さぁ、どうだろうか。他人と比べたことなんてないからわかるはずもない  よ。少なくとも僕の友人はとても真面目で潔癖症気味だった。」 「あっそ。」 鑑は何度目かもわからないため息を吐いた。 「君は何を言いたいの?。」 「……掃除、寝床確保するぞ。」 「わぁお、情熱的だね。」 「何がだ。変なこと言ってないで早くしてください。このままじゃ今夜寝らんねぇだろ。」 「寝る方法ならいくらでもあるよ?。」 「あんたは野生児か⁉ 普通の人間は、……こんなごみ溜めじゃ寝れるわけ  ねぇです。」 「はいはい、わかったよ。」 これ以上怒られるのはごめんだとでもいうように両手を挙げた。鑑はそんな白路の様子にため息を飲み込み、落ちているスケッチを拾って白路に手渡した。白路は不思議そうに顔を見ながら、静かに受け取った。 「俺にはこれの価値がわかんねぇ。あんたがどうにかしてください。俺はこっちを片付けます。」 「ん。」 短く返事をしたことに言いようのない安堵を抱え、鑑は辺りを見回した。何度見ても部屋は荒れ放題で、開けっ放しにされている縁側のせいか庭との境目もよくわからなくなっていた。 見回しても白路の布団さえ見つかるはずもなく、鑑はおとなしく家主に協力を仰ぐことにした。 「なぁ、あんた。布団の予備はあったりするのか?こんなんじゃ洗濯なんてやってるわけねぇよなこりゃ。」 「あら正解。よくわかったね。」 「この家みればだれでも思います。」 「でも布団ならたぶん隣の部屋の押し入れだよ。」 「そうか。」 鑑は白路の指し示した廊下へと歩みを進めたが、冷えた感触が左腕に触った。振り返ると薄く笑った白路が、鑑の左腕をとらえており、やけに骨ばった節くれと、いびつな指の隆起に生唾を飲み込んだ。 「あ、くれぐれもアトリエには入らないでね。そっちの、奥の部屋。」白路の指した奥の方には、もう一つ、扉があった。 「やっぱり、あんた画家だったんだな。」 「まぁ、売れない、画家の端くれ程度の認識でいいよ。」 「安心してください。勝手に張るほどの度胸はありませんから。」 その言葉に白路ははにかむと「あとはよろしく。」とその場を去ってしまった。その後姿を見ながら鑑は布団を出すために隣の部屋へと入っていった。 「ねぇ、あんたの分の布団は干さなくていいですか?」 障子を隔てた隣の部屋からは、まっすぐな鑑の声が聞こえてきた。 「僕のことは気にしないでいいよ」 白路はそう答えると、手の中に或る、スケッチをぐしゃりと握りつぶした。 鑑は布団一式を軽々と抱え、いつの間にかリビングへと戻ってきていた。よいしょと布団をその場に置き、ぎょっと立ち尽くしている白路に声をかけた。 「それにしても、ここ、すごい所ですね。一面、見渡す限り緑しかない。」 「そうかもね。鑑クンのような若者からしたら、ドラマみたいなところかも  ね。慣れれば住みやすいところだよ。」 白路は遠くを見つめ、ふわりとほほ笑んだ。 「ところで君は幾つだい。」 「何歳でもよくないですか。」 「そうだね、君が何歳だろうとどうでもいいよ。」 「じゃあなんで。」 「君みたいな若い子がこのような山奥にいる人間の所に下宿しに来るとは、どうにも心の住みどころが悪くてね。何とはなしに気になったのよ。」 「…………。」 「まぁいいや、改めて、これからよろしく頼むよ昏君。」 白路は鑑に向かってを差し伸べるも、鑑は気が付かずに布団を干しに行ってしまった。宙に左手が浮かんだ。タイミングが悪かったと分かっていても、握られることのなかった事実に悲しんでいる自分がいることに一人静かに驚いていた。物干しには掛布団が一枚たなびいている。  いくばくか時間がたち、鑑は夕日の差し込む屋根裏で荷ほどきをしていた。優しくはっきりと差し込む夏の夕日は、手毬のような照明と部屋の半分ほどを優しく照らす照明を必要とせずとも十分に明るかった。何度見てもリビングからは考えられないほど整頓されている屋根裏部屋に感動していた。半日かけてやっと、リビングの床が見えるまでになったのだ。 「リビングもこれくらいきれいだったらいいんだけどな。」 鑑は、静かに衣服や本を本棚とタンスにしまっていく。タンスの中には数点、昼間来ていたのよりも飾り気のある白路の私服も入っていた。鑑は、自分のものと混ざらないように気を付けながら衣服をしまっていた。粗方の荷解きが終わるころには、部屋もかなり薄暗くなっていた。さすがに照明を点け、備え付けてある机に日記を置き、本を差し込んだだけの本棚へと向かった。本棚にもともと入ってた本は、白路からすべて鑑がもらい受けて良いとのことであるから、自分が使いやすいように今日のうちに並べ替えてしまいたかったのだ。次々と床に本を出していく。ふと、空いて傾いた本の間から、一冊の古めかしいノートを見つけた。表紙には何も書いいなかった。ここにあるという事は白路の私物であることは間違いない。鑑はじっとノートの表紙を見つめた。 「ご飯にしよう?」 後ろから声がかかった。すぐ、後ろだ。背中に冷たい汗が伝う。いつの間にか白路は屋根裏部屋にあがってきていたのだ。とっさに、ノートを本の下へと隠した。 「は、はい。」 白路はにこりと微笑むと、「早く来てね。」と静かに去っていった。鑑は、しばらくそこから動けなかった。        二×××年七月二十九日  何処からか聞こえてくる、馴染みのない鳥のさえずりにふと意識が浮上した。少し埃臭いにおいが布団から漂い、何となく古いタンスのようなにおいが微かに混じっていた。薄く開いた目からは夏の強い太陽が容赦なく瞼をこじ開けてくるが、重い瞼は今にも閉じてしまいそうだった。目の前には薄ぼんやりと白い影が見えるような気がする。少し肩が寒い。布団を手繰り寄せようとした手は空を切った。 「おはよう、鑑昏君。」 その声に、私、鑑昏は飛び起きた。 「え、あえ、あ、おはようございます。」 回らない頭を必死に回転させ、何とか出てきたのは挨拶だった。 「おはようございます。昨夜はよく眠れたかい?」 目の前の、白路暁はニコニコと自分に向かって微笑みかけていた。手には布団の端が握られていて、目の前の人間が自分を起こしたという事をぼんやりとした頭で何とか理解した。 「あ、夜、眠れました。その、何ですか。」 「いやぁ、おはようってだけだけど。」 「は?」 思わず低い声が出る。白路は困ったような顔をしながら私の携帯を指さした。 「だってねぇ、今何時だと思う?」 私は急いで携帯をつかみ電源を入れた。時刻は朝というには遅い、十時半を示していた。 「うわ、うそ。」 「よっぽど疲れていたんだね。君。」 くすくすと目の前の男に笑われた。この年になっても寝坊をした自分に、体が熱くなった。 「すみません、俺。」 「いやいや、気にしないでよ。」 「でも。」 「昨日の威勢のよさはどこ行ったんだい。これからここで過ごすんだから。遠慮するもんじゃないよ。」 「はい……。」 「さぁさ、起きた起きた。朝日を一緒に浴びよう。」 白路の骨ばった手は私の腕をつかみ、朝の支度もそこそこに、庭へと連れ出された。 「どう?ここ、僕のオキニイリ。どう?青臭いでしょう?」 白路は目の前に咲いた赤い花を手折ると私に差し出した。私は反応に困ってその花を上手く受け取ることが出来なかった。赤い花は落下し、白路はそのことに気を留める様子も見せず、リビングへと去ってしまった。 「あ、ちょっと。」 私は足元に落ちた花を拾った。手折られた花はまだ生命の輝きを失ってはいなかった。落下の衝撃で花びらが少し色が濃くなっていたが、美しく咲いていることには変わりなかった。リビングから私を呼ぶ声がする。声に従って私もリビングへと戻ることにした。リビングには不格好なおにぎりが二つ用意されていた。白路が私のために作ってくれたものであることは明白であった。私は一瞬でおにぎりを平らげると、ふらふらとしている白路を呼び止めた。 「あの……。」 「なに?おにぎりおいしくなかった?」 「いえ、そうではなく。」 「そう。それは良かった。」 「掃除。今日もやりましょう。」 「あ、やっぱり?」 白路はすこし嫌そうな顔をしているが、特に反対するそぶりも見せず、床に散乱しているものを片付け始めた。少し意外だった。この家に来たばかりの人間に生活についてケチをつけられているのにもかかわらず、素直に年下の発言に耳を傾けて掃除をしているという事が。手つきを見る限りは掃除が苦手そうにも見えない。明らかな汚物や生ゴミは一切落ちていない。にもかかわらずここまで荒れ果てていたのだ。ちらりと白路の顔を見ても、さして苦痛にまみれた表情をしているわけでもなく淡々とこなしていた。私は、この男が不思議で仕方なかった。気を取り直して床に意識を向けると、庭からであろう砂が大量に入り込んでいた。足先でなでてみてもざりざりと音が鳴り、素手や雑巾でどうにかできる物でもなかった。 「あ、あー、あの。」 「何だい?」 「床を掃きたいんです。箒が欲しいんですが、ありますか?」 「箒か……ちょっと待ってて。」 白路はそそくさと廊下の奥に消え、しばらくしてからばたばたと足音が聞こえてきた。足音に目を向けると白路が折れた箒を抱えて走ってきていた。 「ごめん、折れた箒しか。」 白路は申し訳なさそうに笑った。私は最初から期待していなかった、むしろ折れていても箒があった事実に心の奥で驚きながらも、やはり引き攣ってしまった頬を無視して白路に笑いかけた。 「じゃあ、今日、買出し行きましょう。箒代出しますから。」 ぴしりと、目の前の男が固まった。ように見えたのも一瞬で、白路は笑顔でぴしゃりと言い放った。 「外は、きぶんがのらないかな。」 「どうしたんですか?」 「箒は今度郵便屋さんに頼むからさ、いいじゃない。」 「え、え、なんて?」 微妙にかみ合わない会話にたじろいだ。 「あ、そうだ。ここに来たばっかりだし、せっかくだからこの辺りを観光したらどうかな。お金なら出すよ。」 白路は慌てて財布から数枚の一万円札を取り出して私に押し付けてきた。力の入った拳に追い立てられるようにして私は一度家を出ることにした。  私が白路の家を出て山のふもとにある商店街に着くころには、もう昼時を過ぎていた。適当に空いている喫茶店で適当な食事を済ませ、田舎町をのんびり歩いていた。古い建物が立ち並ぶ問屋街には、所々に観光客らしき人々が楽しそうに買い物をしていた。私は適当に時間を潰しながら、菓子や適当な小物を買って喫茶で一人冷たい珈琲を飲んでいた。私のほかには三人家族が客にいた。壁に掛けられた小さな青白い絵画を見てはしゃぎ、私は家族の元気な声を聴きながら氷の解けた薄い珈琲を飲み干した。  「ただいま。」 思ったよりも時間がかかってしまって帰るころには夕日が照っていた。門を越えて庭に差し掛かったところで、白路が縁側に座っているのが見えた。足をぶらぶらと揺らし、遠くを見ていた。白い衣服はオレンジ色に染まっていた。おもむろに、白路は光るものを首筋に充てた。私は居ても立っても居られずに買い物袋をほっぽりだして白路の手から剃刀をはたき落とした。 「待って⁉」 「え」 白路はひどく驚いた表情で口を半開きにしていた。 「何やってるんですか」 私は大声で叫んだ。 「髪の毛を切りたいだけだけど……え?」 白路は怪訝な顔に、私が盛大な勘違いをしていたことにすぐに気が付いた。 「そんな持ち方危ないでしょ。」 ため息とともに安堵がこぼれる。 「ええ、掃除するときに邪魔だったから切りたいだけなんだけど。」 白路は取り落とした剃刀を持つと、髪の毛に近づけた。どう見ても手つきが非常に危なかった。私は白路から静かに剃刀を取り上げた。 「待って。」 「俺が、切ります。」 私は、ビニール袋に穴をあけた即席のエプロンを白路にかぶせた。肩甲骨下ほどまでに伸びた髪の毛を慎重につまみ、少しずつ、剃刀で落としていった。微かに白路の体がこわばり、緊張していることが手のひらに伝わってくる。 「あの。」 「んん~?」 「あんたは本当に画家、であってるんですよね?」 「そうだね、世間から見たら僕は画家になるだろうけど、どうして?」 「いえ、たくさんスケッチがあったけど、絵は見たことなかったから。普段から絵を描いているのかなと気になっただけ、です。」 「へぇ、君は絵画好き?」 「すごい世界なんだろうなとは思います。けど俺には価値はわかりませんの  で、不快に思ったならすみません」 正直に答えた。そんな私に対する返答は、とても軽いものだった。 「そんなもんでいいんじゃない。」 「いいんですか。」 「そりゃあね。絵画なんかは見なくても生きていける物ではあるし。」 しゅるりしゅるりと、髪を切る音がする。 「君は?」 「俺ですか。」 「そう。昏君のこと、僕は知りたいよ。」 「俺は大したもんじゃないですよ。普通の文系の大学生です。」 「ふうん、自分のこと話すの嫌い?」 白路の声はにやにやと含み笑いしているようだった。 「何を話したらいいのか。」 「ふふふ、今どきの大学生ってどんな感じ?」 「みんな良くも悪くも楽しんでると思いますよ。大学生活。」 「へぇ、昏君、大学好きなんだね。」 「……そうですね、楽しいです。座学も、友達と遊ぶのも、どっちも。」 「僕はずっと時間に追われていたからすごくうらやましいな。楽しかったけ  ど。」 「あんたも大学好きだったんですか?」 「そうだね、楽しかったと思うよ。」 白路の声は寂しそうに聞こえた。髪を切る音だけが響く。 「昏君、大学には及ばないと思うけど、此処の生活を楽しんでいってくれたら  嬉しいな。」 「それはあんた次第でしょ。」 「言うねぇ。」 いつの間にか白路の髪の毛も肩ほどの長さにまで短くなっていた。最後の一房を切り落とし、何となく私は白路の肩をたたいた。白路は庭に転がっている鉢植えに近づいて、水溜まりに自分の姿を映した。 「ふふ、あはは、へたくそ。」 白路はこちらを振り返ると、髪の毛を一房つまみながらからからと笑った。切り口ががたがたと不揃いではあるが、とても似合っているような気がした。        二×××年八月十一日  白路としばらく暮らして、彼についてわかったことはそう多くはなかった。整った顔にはいつも微笑がたたえられていて少し感情が分かりにくい人であること。アトリエさえ絡まなければ、ひどく寛容であること。朝日と共に目を覚まし気のままに生きる、獣のような人というくらいで、アトリエに行ってしまえば 1 日帰ってこないことの方が普通だった。今日もリビングに接した縁側に白路が座っている。胡坐をかき、右手をぴんと後ろについて、空を眺めていた。左手の先には朝日に照らされたボウルがぎらぎらと白い星が散った。顔を洗ったばかりの、起き抜けの瞳にはいささかまぶしすぎた。白路は私のことは気にも留めず、不格好に切られたスイカをむさぼっている。スイカの汁は肘を伝い、白い服を薄赤く点々と染めていた。私は右手にもっていたフェイスタオルを握り直した。白路は私のことを見なかった。その間にも彼の肘からは絶え間なく薄赤い雫が垂れていた。嚥下した喉が隣で鳴いた。 「ちょっと、あんた何やってるんですか。」 私は白路の肘を静かに拭いた。 「とってもおいしいねぇ。」 白路は顔色を変えずニコニコとほほ笑む。一切れの、最後の一口を豪快に飲み込んで、皮切れを庭に放り投げた。どさりと音がして、土がはねた。 「だからってそんな食べ方はないでしょう。」 「そこに残りあるからぜひとも食べて欲しいよ。」 「話を聞いてください。そして自分で拭いてください。」 「なぁに、きみ、僕のお母さんみたいなこと言うね。」 「世話焼かれている自覚あるんなら自分で拭いてくんねぇですか。」 私は思わずフェイスタオルを白路に軽く投げつけた。白路はタオルを拾い上げ、ガシガシと無遠慮に顔を拭いた。 「汚れたら着替えればいいじゃないか。服なら腐るほどある。」 「洗濯するの誰だと思ってるんですか。」 白路は鬱陶しそうに私を横目で見る。その目は楽しそうににやりと真昼の猫の様に細められた。くつくつと喉で抑えきれない笑いが彼から聞こえてきた。 「ふふふ、わかったよ、お・か・あ・さ・ん。」 「え、気持ち悪。」 反射的に鳥肌が立った。 「ほれ、とりあえず食べてみるといい。」 彼はひとつ目うを伏せると、ボウルからスイカを取り出した。みずみずしいスイカはてらてらとひかり、凹凸のひとつ一つが深い赤色をしている。スイカを掴む左手が恐ろしいほどに白く見え、私は彼の腕をつかみ、スイカを一口かじりとったのだ。 「ほんとにおいし。」 口の中で甘い水気が溢れた。かじりとった細胞は耐えきれずスイカからは絶えず雫がしたたり落ちた。スイカを半ば分捕るようにさらい、白路の隣に腰かけた。 「それにしても、このスイカどうしたんだ?」 「そこに自生しているんだよ。売り物に比べたら味は薄いだろう?」 庭の一角を指さした。確かにそこには他よりも少し草が低く薄いような気がした。 「言われてみれば。でも気になるほどではないです。ちゃんと育ててるんです  ね。」 「まさか。待ちきれなくてつまみ食いばかりしていた結果だよ」 よくわからなかった。彼は無言の私を一瞥した。 「自然と間引きになって、結果的においしいスイカが出来ただけさ。」 「そうですか。ありがとうございます。」 「うん、若人は年長者に甘えるものだよ。」 「あー……。」 彼は時々、いや頻繁によくわからないことを口走る男だった。 「僕はこれで満足だけど昏君はもちろん足りないよね。」 「はい。これだけでは足りないです。これを食べ終わった作るつもりですが、あんたはいらないんですか?」 「僕はいらないよ。」 白路が唐突に、こちらをじっと見た。瞳はらんらんと輝き、何かを明らかに企んでいた。 「何ですか。」 「そうだ! 昏君がこの家に来た歓迎の証として今日は僕が朝ご飯を作ろう  か。」 「俺がこの家に来てから一週間以上たってますね。今更過ぎねぇですか。」 「いいじゃないか。大事なのは僕が鑑昏という人間に対して歓迎の意思がある  という事。」 とてもいいことを思いついたと言うように、声は弾み明るかった。私は思わずため息をこぼした。 「はぁ。」 「という事で、僕はキッチンに行ってくるよ。」 「わかりました。」 「あ、そのスイカ、食べてしまって構わないよ。」 後ろからかかる声に、何となく居心地の悪さを感じ、私は縁側に座りなおした。私は、ボウルをのぞき込み、その有様に思わずつぶやいた。 「どんだけ食べてんだ、あの人。」 ボウルに残されていたのは、たった一切れのスイカだった。私は急いで手に持ったスイカを食べきると、最後のスイカに手を伸ばした。噛むたびにじゅわりと甘みが口に広がり、やはり美味であった。 「昏君、お待たせしたね。」 「いえ。」 「はい、どうぞ。」 「ありがとうございま…………。」 私は絶句した。私の眼前に広げられているのは、綺麗に握られているおむすびと、明らかに茹で上げられただけの鶏肉だった。 「これ、味付けは?」 「お腹が空いているんでしょう?早く食べないのかい?」 「いや、これは。」 私は沈黙し、おむすびを手に取った。ほんのりとした塩味は実にうまかった。 「鶏肉苦手だったかい。悪いことをしたね。」 「いや、そういうのでは。」 「そう?」 目の前の男は普通に鶏肉を食べていた。湯気が立ち上っているのにもかかわらず、両手で引き裂き、おいしそうに食べていた。 「今日の昼からのご飯は今まで通りすべて俺が作ります。俺が、作ります」 「いいのかい?」 「任せてください。それと服、着替えて洗濯機放り込んでおいてください。あ  とで洗濯しておきます。」 「そう言えば、(食べ物を飲み込む)君災難だったね、家がなくなってしまうと  は。」 「結構、家賃安くて気に入ってたんですけど、大家が夜逃げしてたみたい  で。」 「どうしようもなくなって取り壊し。」 「元々かなり古い建物でしたからしょうがないです。」 「今どき夜逃げね。夜逃げしたところでどこにも居場所はないだろうに。でもなんで僕の家を選んだんだい?」 「正直に言えば消去法でした。」 「そうだったんだね。」 「はい。でも一週間過ごしてみて、ここでよかったと思ってますよ。」 私は心の底からわらった。  何某の田舎道、三十代ほどの男女二人、七海章と大塚沙映が山道のバス停前に立ってた。いいかにもバスから今、降りましたとでもいうように女は肩の荷物を持ち直す。男はぐいっとひと伸びをし、大きな深呼吸をした。ぐっと息を止め山の空気をおもいきり吸い込んだ。 「山の中とは言え、やっぱり暑いね。体調、崩してないかなぁ。心配だよ。」女は呟いた。 「沙映は心配しすぎだろ。あいつのことだから大丈夫なんじゃないか?案外元気にしてるんだろ。」 「そうかもしれないけどぉ、前に来たときは思いっきり体調崩してたじゃない。ちょっと心配。」 「えー、まぁわからなくはないけどさ、心配したところで意味ないじゃないか。連絡手段だって、手紙しか使えないって。現代社会でどうなんだ?」 「いろいろ言いたいことはあると思うけどぉ、早くいかないとお昼になっちゃうよ。あきくんきっとお腹すかせてるよ。」 「あいつもいい大人だろ?そろそろ自炊でもできるようにならなきゃあいつ死ぬぞ?」 七海・沙映は山道を軽々と歩いている。彼らにとってこの山道は慣れ切った土地だった。山にこもりきりの白路を心配して、彼らは定期的に訪れていた。山道は夏という事もあって道を塞ぐ勢いで生い茂っていた。家に近づいていくにつれて、微かではあるが開けていった。 「あれ、此処こんなに綺麗だっけ?」 「いや、前はもっと鬱蒼としてた気がするけど。」 「そうよねぇ、こんなにきれいだったかな?」 「うおぉ、虫、虫!」 七海が飛んでいる虫に驚き、沙映に飛びついた。 「しゃっきりしてよ。」 「いやだってぇぇぇ……。」 「ほら行くよ。」 「ひぃ、待って、待って。」 沙映は臆することなく腰まで伸びている草木を踏みつけ、前に進んだ。足元で踏みつぶされた残骸がみしみしと音を立ててゆがんだ。七海はそこら中に飛び回る虫にひとつひとつ、怯えながらあきれ返っている沙映を急いで追いかけた。それからしばらく二人は無言で歩いた。足元はいつの間にか土が見えるようになってくる。門前に着いたのだ。沙映は言葉にできない、まるでその場所に初めて訪れた場所にも関わらず、過去に来たことのあるようなデジャヴに似た感覚に、異様な違和感を覚えてしまった。どことない不安に、ぐるりと辺りを見回した。 「……うーん?」 いつの間にか七海がインターホンを押していた。予想通り返答のない家主に、二人は勝手知ったる門を開けて庭に入った。 「あきくーん。どこぉ?」 「よぉ、来てやったぞ白路ぃ。」 「お土産、もってきたよー。」 何度か呼びかけると、コトコトと小さな足音が聞こえてきた。いつ見ても真っ白い男は、両手に土鍋を抱えて二人のもとに走ってきた。 「ななみ、さえ、こんにちは。久しぶりだね。君たちは元気かい?」 「おう、俺らは変わらず元気だよ。お前はどうだ?」 「僕も元気さ。」 「これどうしたの?」 空の土鍋を沙映はのぞき込んだ。いつ訪れたときも、くたびれていた綺麗な男であった白路が、元気に土鍋を抱えている姿がなんだかおかしかった。 「僕ね、今からご飯作ろうと思って。二人が来るとは思わなかったからびっくりしたよ。今日はどうしたんだい?」 「飯か……。いいじゃないか。どんなの作るんだ?」 「しゃぶしゃぶ作ろうかなって思ったんだ。冷たいポン酢と合わせて。」 「いいじゃない。手伝うよぉ。ペットボトルとかもそのままでしょ。片付ける  の手伝うわ。」 沙映はきゃらきゃらと笑い、白路の両手から鍋を受け取ってキッチンへ駆け込んだ。 「俺は何すっかな。」 「草刈り、しててよ。タダ飯禁止よ~。」 沙映は虫嫌いの七海に対して、容赦なく言い放った。 「え。」 ぴたりと七海の体が止まる。 「よろしく~。」 「よろしく。」 「わかったよ。」 七海はガシガシと頭をかいて、庭におとなしく向かった。沙映はキッチンに入ると、びっくりするほどきれいに整頓されている様子に、思わず足を止めていた。改めて家を見渡すとお世辞にも綺麗とは言えないが、それでも何時でも至る所に散らばっていたスケッチは一か所にまとめられて、床が見えていた。ごみが放置されていたことは、キッチンの流し以外には一度もなかったが、物が溢れかえっていたのにも関わらず、今はきちんと床が見えているのだ。観葉植物が倒れたままで放置されているのは気になるが、砂っぽさを感じること以外は確かに綺麗になっていた。 「ねぇ、やっぱりなんか綺麗……。」 白路は呟いた沙映を後ろからのぞき込むと、抱えていた大根をまな板の上に置いた。 「今、下宿しに来ている子がいてね、その子がとってもきれい好きなんだ。」 「そうなの! 挨拶しなきゃ。どこにいるの?」 「買い出し中だよ。」 「ええ、そんなぁ。ってご飯はどうするの?」 「それなら心配ないよ。お金は渡してあるから勝手に食べて帰ってくるよ。」 「そうは言っても……。」 「彼ね、とってもかわいい子なんだ。」 沙映は、白路に同居人がいることに非常に驚いた。と同時に、整頓された家の様子に、納得した。沙映は段ボールから白菜を取り出し、洗った。葉っぱには虫食いの跡がはっきりと見えて、葉に紛れた土が洗い流されていくのをじっと見ていた。白路が大根を切る音がやけに響いた。 「……やっぱりこの家から出る気はないのね」 「うん。ごめんね、さえ。」 「ううん、聞いてみただけ。わかってる。」 二人は黙って野菜に向き合った。白路は皮ごと豪快に大根を切り落とした。沈黙を破るように七海の叫び声が庭の方からはっきりと聞こえてきた。 「た、助けて、蜂、蜂助けて白路ぃ。」 切実な悲鳴に、不思議と笑いがこみ上げていた。 「行ってきてあげて。」 「ふふ、うん。行ってくるよ。」 「ちょは、早く!」 「今行くよ。」 「やっと来た、こいつ、殺してくれ!早く、早くぅ。」 「これ、蜂じゃない。便所バチ。蚋(ぶよ)だよ。」 「刺さない?こいつ刺さないよな⁉」 「刺さない、刺さないよ。ほら、あっち行くんだよ」 「なんでこんな虫だらけの所で住めるなほんとに。」 「なんでこんな虫だらけの所にこんなに来てくれるんだい?すごいよね、なな  み。」 沙映は笑った。友人二人が、会ったばかりのあの日の様に、まだ笑えていることがうれしかった。  夕日がさす、橙色の縁側で白路はじっと本を読んでいる。私はその後姿が、とても寂しげに見えてしまった。思わず白路の隣に腰を下ろした。おろした足に靴下を貫通して草の鋭さが直に伝わってくる。夏の、湿った鼻に重くのしかかる匂いがこそばゆかった。 「おかえり。外、暑かったかい。」 「それなりに暑かったです。」 「具合悪くはなってないね。」 「はい、大丈夫ですよ。あんたが心配することは何もありません。大学生、なめないでください。」 「そっか。」 「はい。」 私は無言で夕日に照らされた庭を見た。青々と茂っていた草木は今は鈍く黄金色に光っていた。いくら夏とはいえ、何となく足先が冷えていた。不思議と心は落ち着いていた。今はただ、この静かな夜の山のさえずりに耳を傾けたいと思った。 「今日、大学時代の友人が来てくれたんだ。とっても驚いていたよ。」 白路の目線の先は、リビングだった。 「そうですか。楽しかったですか。」 「もちろんだよ。友人との会話は実に有意義で楽しいものだった。」 「そうですか。」 「うん。」 「それにしても、こんなところで本読んでたら虫に刺されますよ。」 「そうはいっても、なかなかに、気持ちがいいよ。本を読むにはグッド・タイミングだ。」 「虫に刺されて、後で苦しいのはあんたです。」 「いつものこと。些事にもならないよ。」 「そうですか。あんたが苦しむ分にはどうでもいいが、おれは苦しみたくはないですから。隣の部屋に引き上げてます。洗濯もの、後で出しておいてください。朝一で洗濯するんで。」 「あら薄情。……はいはい。昏君が帰ってきたことだし、僕はアトリエに行くよ。」 「わかりました。」 私は自分の部屋に戻るために立ち上がった。目線が高くなり、自然と白路を見下ろす形になった。すでに首元には蚊が一匹止まっていた。 「あ、そうそう、明日のご飯、エッグベネディクトがいいな。」 私はそれには返事をせず、黙って立ち去った。 七海と沙映は暗がりがさしかかっているバス停でバスを待っていた。田舎に走るバスは当然本数も少なくて、夕方というまだ比較的に明るい時間でさえあと数本でなくなるところであった。足元からじんわりと熱気で靴があぶられる。 「あいつが自炊をするとはな。驚いた。」 「そうだね。」 「……どうしたんだ?」 七海が沈んだ様子の沙映に声をかける。ふっと七海の目の前から沙映の姿が消え、足元にしゃがみこんでいることに数コンマ遅れて気が付いた。 「大丈夫か⁉」 「大丈夫、どうもしないよ。あきくんもちょっとは人間らしく生きられてるのかなって思ったら安心して気が抜けちゃった。」 「なんだ、それにしては顔色悪いぞ。本当は具合悪いんじゃないか?」 「そんなんじゃない、そんなんじゃないよ。でも。」 沙映は顔を両手で覆った。両手の爪は学生の時と同じ、いびつな形でゆがんでいた。 「なんだか、自分が許せなくて。」 「……そっか」 エンジン臭さが鼻に響いた。バスがいつの間にか目の前に来ていた。 「すいません、乗ります。」  誰もいないアトリエでじっとたたずむ一人の男がいた。男の右手には何本もの筆が器用に握られていた。左手には細い筆をもち、キャンバスに筆を滑らせていた。いつの間にか小さく空に近い窓からは満月がてっぺんに上っているのが見えた。何度も耳鳴りが頭に響いていた。 目の前がぼやけていた。ジワリと目尻が熱くなる。景色は滲んでいるはずなのに、不思議とはっきりと見えた。ぐらりと頭が傾くと同時に、喉の奥で嗤い声が摺りつぶされた。口からはうなり声が漏れ出た。いつの間にか天井がみえていた。倒れたのだ、多分。腕にはべっとりと暖かいぬめりがあった。きっと絵の具だろう。これはきっと怒られてしまう。そう理解しているのに、男は何もかもがどうでもよくなってしまった心地が確かにあった。絵の具でべとついた腕をそのままに男は笑顔のまま目を閉じた。        二×××年八月××日  屋根裏部屋の、うす暗い空間に差し込む朝日にいつの間にか自然と起きるようになっていた。この家に来る前は学生らしい、良くも悪くも不規則な生活をしていた。寝不足に溺れる日々も、自然と普通の生活リズムに戻っていた。布団から体を起こし、ぼーっとした頭で朝日を見た。昨夜、少し寝つきが悪かった以外は清々しい朝だった。何時ものように部屋を出ようとしてふと立ち止まった。何も物音や人の気配がしないのだ。私が起きるころには白路はいつも起きていたのだ。私たちは互いに大人だった。ある程度生活リズムをああせることがあっても、基本的には自由に過ごしていた。だから彼がいつ起きていようと寝ようと気にしたことはなかった。逆を言えば、白路は私が寝ていようとも生活音に気を使ったことなどなかった。それなのに。私は妙な胸騒ぎがして急いでリビングに降りた。やはりリビングは誰もいなかった。庭に出てみるが人の気配はなく、伸び放題の雑草しかなかった。私は、意を決してアトリエに向かった。アトリエのドアはピタリと閉じられ、開放的だったこれまでの場所とはかなりまとう気配が違っていた。人を拒絶する確かな気配に、足が止まった。彼が入らないで欲しいと言っていたアトリエ。私はドアノブをひねった。扉を開け、最初に目に飛び込んできたのは、壁に立てかけられていた、大量の油絵だった。青を基調として描かれた無機質な建造物は、冷たいながらも静かに燃える熱が内包されていた。氷を掴んだ時の、手のひらに感じる熱さのような不思議な熱であった。私は境界線をこえた。アトリエは美しさを感じるほどに整えられていた。隅に置かれた、背丈程の本棚にはたくさんの大きな本がぎっしりと収められていた。ざっと見ただけでもかなりの種類の本が見られた。人体解剖図や建築・鉱物のような本もあれば、数学や統計学の本も収められていた。どれも読み込まれた跡が表紙の劣化具合からも伝わってきた。私はその圧倒的な様相に惚けていたが、本棚のガラスに映る真っ白い人影に本来の目的を思い出した。振り返り、急いで白路に駆け寄った。 「白路!」 白路はピクリとも動かなかった。必死に呼びかけても、彼は静かに呼吸をするだけで、全身はだらりと脱力していた。 「おい、白路、あんた大丈夫か。何があった。何があったんだ」 ピクリ。瞼が微かに動いた。私の声が届いたのだ。彼は薄く目を開けた。一つ欠伸をすると、何事もなかったかのように伸びをした。 「んんーー、おはよう。どうしたの?アトリエには入っちゃダメって言ったよ、僕」 いつもの様子に、一気に疲れがのしかかってきた。不思議とみぞおちから鎖骨にかけてじんわりと怒りがこみあげていた。思わず荒い声を上げてしまった。 「あんた何考えてんだ。なんで倒れてるんだよ。」 「名前。」 白路はただこちらをじっと見ていた。 「はぁ?」 「白路って、名前呼んでくれたね。『あんた』よりずっといい。これからもそうやって呼んでよ。」 「今はそんなことどうでもいいだろ!体は大丈夫なのか!」 「どうでもよくなんてないよ。」 いつも穏やかに流れていた白路の声が、初めて怖いと思った。緊張とは違う、純然たる恐怖だった。 「名前は個を示すアイデンティティさ。名前なくしてどうして自分を語れるんだい?……出来ることなら下の名前で呼んで欲しいな。」 「…………元気そうだな。」 目の前の男はひと伸びすると、近くにあった布巾で絵の具にまみれた腕をぬぐった。 「いや、まさか寝ちゃうとはね、自分でもびっくりびっくりだよ。ごめんね、昏君。驚いたよね。このとおり僕は元気さ。」 「本当に、肝が冷えた。」 私は静かに座った。いつの間にか放り出されていた布巾を手に取り、白路の腕を引き寄せた。取り切れていない絵の具をぬぐっている間、白路はじっと私を見つめていた。白路は薄い微笑をたたえていた。居心地の悪くなった私は、一心に腕をぬぐった。 「これ、全部あんたが描いたのか。」 「そうさ。僕の作品たちだ。リベラル・セクショナリズム、はたまたエゴイズムの塊。浅ましくも下品な群像劇さ。」 「まるで自分の作品が嫌いみたいな言い方だな。」 「どうだろうね。」 私はたくさんの絵画を見つめながら思わずつぶやく。 「……きれいだな。」 白路が微かに顔をゆがめる気配がした。なぜだろうか、その表情に惹かれてしまった。とても愉快だと思った。 「すごい、きれいだな。すごい。」 もう一度。言葉に出してみた。一音、一音はっきりと。 「頭、湧いてんのか。」 憎しみにまみれた声で、明確に侮辱された。私は掴んでいた腕を引き寄せると、目の前の男の顔を両手で掴み、目を合わせた。両手からは微かに震えが伝わっている。投げ出され彷徨った彼の両手は握られ床に置かれていた。拳はぶるぶると震え、床を伝って私の太ももに響いた。真っ白い様相と相反するように瞳はぐるぐると鈍く金属色に輝くタールが渦巻いていた。顔は見たこともないほど歪み、犬歯は鋭く緊張からか息は荒かった。それほどまでに感情をむき出しにした白路を見たのは初めてだった。いつも微笑んでばかりいた人が、絵画に対する賞賛だけでこんなにも歪んだ表情を見せたのだ。 「ほら、きれいだ。むき出しの暁さん、やっと見れた。」 「悪趣味だな、お前。」 「はは、そんなことないですよ。暁さん。」 「名前で呼ぶな、気色悪い。」 私の胸ぐらをつかんでとんでもない力で投げ飛ばされる。床に転がる私を真っ白い男は見下ろしていた。その顔は今までに見たことのない様な非常に整った笑顔を浮かべていた。 「朝ご飯。エッグベネディクト、楽しみにしているよ。」 白路の足音を聞きながら、私の手のひらは自然と服の裾を握りしめていた。顔が引き攣った笑いを浮かべている気がした。私はしばらくその場から動けなかった。  「できたぞ。正確なもんじゃないですけど。」 私は作った料理を運び、リビングへと運んだ。エッグベネディクトと簡単なサラダを置いた。白路は読んでいた本を閉じ、縁側から立ち上がる。特に変わった様子をみせることもなく笑顔で席に着いた。 「いいよ。それっぽいものがでいていれば何の問題もない。」 「そうかよ。」 「とってもおいしそうだね。いただきます。」 「いただきます。」 目をキラキラと輝かせながら、白路は器用に切り分けていた。大きめに切り分けたマフィンをソースに絡め、豪快に口に運んでいた。目の端はふにゃりとゆるみ、白路のお気に召したようであった。もしかしたら本当はこってりと濃厚な食べ物が好きなのかもしれない。あっという間に平らげてしまっていた。少し物足りなさそうにちらちらと、こちらを伺ってい気が付いていた。なんだか気恥ずかしく、目の前の料理に集中した。 「おいしい。」 「そうか。」 「うん、おいしいよ。どうしたんだい、昨日は目玉焼き丸っ焦げにしてたの  に。」 「うまいのは当然です。今日はレシピを見ながら作ったから」 「え、今までまさか勘で料理してたのかい?」 「はい。そもそも料理の本、この家には一冊もなかったです。」 「それは……、言ってくれれば買ってきてもらったのに。」 「買い出しの時に自分で買ってきたんで大丈夫です。」 「だったらいいけどね、何か買ってお欲しいものがあったらそこに書いておい  てね。」 白路はキッチンに併設されたダイニングテーブルを指さした。 「え、何でですか。」 「今日は郵便屋さんが来る日なんだ。」 「郵便屋さん?」 「深く考えずに書いておいてくれればいいよ。」 「はぁ。」 きっと白路には説明する気はないのだろう。朝の出来事もあってか、私は白路対して説明を求めることができなかった。最後に残ったマフィンの一欠けらを使って、丁寧に皿にへばりついたソースを拭い去って、咀嚼した。 「お皿、頂戴。」 「ん。」 目の前にあった空皿を手渡すと、白路は受け取りキッチンへと去っていった。いつの間にか食後の食器洗いは白路がするようになっていた。白路なりに食事を作らせていることを気にしているのかもしれない私はダイニングテーブルに置かれたメモに「バター」「和食の料理本」「みりん」と記入する。カチャカチャとキッチンからする物音を聞きながら、私は屋根裏部屋へ大学の課題を片付けるために戻ることにした。教科書を本棚から取り出し、ノートを開いた。今朝の出来事が頭をよぎるせいか文章が目を滑ってなかなか集中が出来なかった。あんなに白路が取り乱し、私に対して嫌悪の表情を見せたのは初めてだった。彼は酷く自分の作品を嫌っているように感じとれた。彼の様子がおかしくなったのは、確かに絵画に対する賞賛を口にした時からだったように思う。なぜ、彼はあんなにも自分の作品を嫌うのだろうか。ふと、この部屋に来た時に見つけたノートがあったことを思い出した。おそらく白路の私物であろうことは想像に易かった。私は、机の引き出しからノートを取りだした。興味と背徳感がせめぎあい、表紙を見つめ続けた。どれくらい時間がたったのだろうか。不意に、インターホンの音が聞こえた。こんな辺鄙な山奥に来客が来るとも思えず、私は小窓から外をのぞき込むと、門前に男が大きな荷物を持って佇んでいた。窓枠に頬杖をつきじっと見つめていると、何となく、目が合ったような気がした。 「……郵便屋さん。」 私は白路を呼ぶためにアトリエへと向かった。軋む屋根裏の階段を降り、廊下の奥、アトリエに続く道をまっすぐと歩いた。扉をあけ、堂々と白路のもとに行くと、彼はこれ見よがしに大きなため息をつく。こちらを見ることもなく、吐き捨てるように言った。 「アトリエに入るなって言わなかったかい?」 「白路。」 「人の気配がある所で僕は絵が描けないんだ。邪魔しないでくれ。」 「白路さん、話を聞いてくんねぇか。」 「うるさいな。」 白路の背中からは強い拒絶が伝わってくる。構わず私は白路の名前を呼んだ。 「暁さん。」 静かなアトリエに、唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。 「郵便屋さんが来てるんです。」 「……郵便屋さん?」 「門の前で待ってる。」 「……今行く。悪いことをしたね。」 白路はゆっくりと立ち上がると、私の肩を軽くたたいた。 「いえ。」 私は美しいアトリエを一瞥すると、白路の後を追いかけた。追いついた時には、二人は親し気に笑い、聞いたこともない声色で話していた。 「よぉ。」 「あんたが郵便屋さんですか。」 「おはようさん。」 「おはようございます」 「今日も死んでなかったか。元気で何よりだ。」 冗談にしては随分と質の悪いものだった。今朝の白路の姿がよぎり、私は思わず声を荒げそうになっ、た。 「あんた……!」 しかし、当の本人は柔らかく微笑むと、得意そうにわらった。 「当然。」 「はは、まあいいや。ほれ、これが当分の間の日用品と食料、頼まれていた絵  具とパレットだ。」 「ありがとう、おじさん。」 白路は微笑みながらスーツケースを受け取った。 「いいんだよ、好きでやってることだ。」 郵便屋さんはこちらには見向きもせず、じっと白路を見つめる。首をかしげてにやりと笑った。 「ほぉ。」 「なーに、そんなに見つめて。えっちだね。」 「冗談よせやい。俺が愛してるのは嫁さんだけだよ。」 「わかってるって。冗談。」 「いやなぁ、お前さん、太ったか?」 「最近ちゃんと三食食べるようになったからかも。」 「ふうん、いいんじゃないか。」 「そう?これ、メモとお金。」 「確かに受け取った。」 「おじさんよろしくね。」 「おう、元気でやれよ。」 「おじさんもね。」 私はその様子を白路のそばで、黙って見ていた。郵便屋さんが帰り、私たちは一緒に荷物を運んでいた。とはいっても、白路はスーツケースを軽々と運んでいたから、私が手に持っているのはスーツケースからあふれてしまった少量のビニール袋に入った野菜くらいであった。 私は、言いようのない感情に、足を止めた。 「どうしたの。」 「いえ、…………。」 白路はこちらを振り返った。 「郵便屋さんって、あのひと。」 「最初は手紙を運んでくれただけだったんだけど、アノ人、世話好きだろう?  僕がまだ無名の時からあの人は支えてくれいているんだ。」 あんなに大量の荷物を、この山奥まで一人の初老の男が運んできたのかと思うと、些かその行動には疑問が生じた。 「普通はあそこまで人に尽くせない。」 「なんでこんな僕にあそこまでしてくれるんだろうね。」 「それだけ、郵便屋さんはあなたのことが好きなんじゃないですか。」 「真っすぐな好意ほど嬉しいものはなかったはずなんだけど。」 「そうですか。」 「そうだね。申し訳ないと思うのも失礼だってわかってるから。僕はこれからもあの人の手を借り続けるだけだよ。」 白路はたった二人の友人から届いた、彼らが個人で開いている小さな展示会の招待状を、静かに握りつぶした。  あれから幾日か経ち、それは平凡に日常が過ぎ去っていた。都会から離れ、課題をこなしながら自然の中で生活することが意外にも楽しいと感じていたころだった。いつの間にか庭の手入れが趣味へと変わり、荒れ放題だった庭も見違えるように整えられていた。 「おはよう。」 後ろから声がかかった。最近は私の方が早く起きることもあるくらいには早起きが習慣となっていた。 「今日、悪いんだけど、ちょっと遠いんだけど、ここまで買出し行ってくれないかな。」 白路が申し訳なさそうに私に言った。 「……いいですけど、結構遠いですね。」 「ごめんね、多めにお金渡すから、向こうで泊ってきてもいいよ。」 「わかりました。あとでメモ下さい。」 「わかってる。」 「白路さん。」 「何だい。」 庭いじりをするために付けていた軍手をしまい、私は近くにあった上着を掴んだ。 「いえ、なんでも。おれ、出かけてきます。」 「いってらっしゃい。」 彼は、決して「一緒に行こう。」とは口にしなかった。 山を下りるころにはすでに太陽は真上に君臨していた。私はいつの間にか通いなれてしまっていた商店街の一角の喫茶店で、少し遅めの昼食をとることにした。運ばれてきた紅茶は薄甘く、癖のある水道水の味が舌によく絡みついた。少し遅れてやってきたサンドウィッチはサクサクと香ばしい香りが漂い、マヨネーズが良く効いていてあっさりとした紅茶によく合ってた。この商店街の店には小さな絵画がよく飾られていた。この喫茶店も例外なく、落ち着いた雰囲気に青い絵画はよく似合っていた。女将がサービスのスコーンとジャムを運んできた。女将は私の目線の先に絵画があることに気が付いたようだった。 「あら、お客さん、あの絵が気になるようで。」 「あ、はい。あの絵は…。」 「あの絵はね、うちの人が買ってきたのよ。」 「旦那さんが、ですか?」 「ええ、この絵を買ってきたときね、『こいつはすごい作家になるぞ!俺が助けてやるんだ。』ってとっても興奮していたわ。」 「そうなんですね。」 「うちの人のあんな顔、久しぶりに見たからよく覚えているの。うちの人は  ね、絵画に目がなくて。ずいぶん、いろんなところに売り込んでいたみたい  ね。」 「とても、きれいな絵ですね」 本当に美しい廃墟の絵だった。 「そうでしょう? 私もすごく気に入ってるから、飾らせてもらってるの  よ。」 でもどこか、見覚えがあった。 「……なんて作家さんなんですか」 「ええっと、だれだったかしら。うちの人はしろくんって呼んでたわね。……  そういえば最近しろくんの話聞かないわね、あの人から。どうしてなのかし  ら。」 私は思わず立ち上がり、一気に紅茶を飲み干すと机にお金をたたきつけた。 「すみません、急用を思い出しました。これ、おいしかったです。ありがとう  ございました。お釣り、いらないです」 「え、お客さん! ……行っちゃったわ」 驚く女将の声が聞こえたが、私は急いで駆け出した。一刻も早く、白路のもとへ戻らないといけないと、何かがささやいていた。  「ただいま。」 ちょうどその頃、喫茶店では女将が茫然と立ち尽くしているところに、女将の夫がちょうど、帰ったところであった。 「あら、お帰りなさい。裏から帰ってきてくださいよ、もう。」 「いいだろう、どうせ常連しかいねぇんだから。」 「もう、あなたったら。」 「お、それ、もったいねぇな。」 「そうねぇ、なんか急いで帰っちゃったのよ。どうしてかしらねぇ、おいしくなかったのかしら。」 「お前の料理は絶品だろうが。」 彼らは仲睦まじい様子を見せ、互いに抱きしめた。 「あら嬉しい。あの子、お釣りも受け取らずに帰っちゃったのよ。またきてく  れるかしら。」 「さあな。」  私は全力で商店街を駆け抜ける。その間にも視界の端にはたくさんの青い絵画が飾られているのが見えた。商店街を駆け抜けてバスに乗った。買出しのことなんてもうすっかり頭から抜けていた。気が付いてしまったのだ。どことなく感じていた違和感。彼は、生きながらに死んでいるのだ。そして、その原因はきっと彼自身が描いていた絵画にあった。絵画は彼にとって苦痛の証だったに違いないと、この時の私は感じていた。窓の外ではパノラマが走っていた。バスの中で言いようのない焦燥感が常に付きまとっていた。 すでに極限まで息が上がっていた。吐き出す空気は喉を殴り、肺は絞られたかのように痛み出していた。 「行かなきゃ、早く。」 わき腹が痛い。抑えながら山道の草木をかき分けて入っていく。頬を枝がかすめ、薄く傷がついたことさえもきにならなかった。私は白路の姿を見つけると、思わず掴みかかっていた。 「どうしたの、そんなに息を切らして。というか、買出しは?」 整わない息を殺し、懸命に絞り出した。 「おれ、あんたに言いたいことが。」 「僕に言いたいこと?」 「はい。あんたに伝えたいことがあるんです。」 「それは、なに?」 目の前の男は怪訝そうな顔をしている。 「白路さん、今すぐ郵便屋さんと縁を切ってください。」 私の言葉に、白路はぽかんと口を開けた。 「何を言い出すかと思えば。」 「郵便屋さん、あの人はあんたのことを。」 「知ってる。」 「だったら。」 「僕は変わらない日常を望むよ。」 「じゃあなんで。」 「鑑君、僕は今の状態じゃあの人の手なしじゃ生きられないんだ。」 彼は、私の苗字をはっきりと口にした。 「そんな、あんたのゆく道は真っ暗じゃないか。」 悲鳴が口からこぼれる。目の前にいる男はとても寂しそうに微笑んだまま、嗤った。 「ごめんね。これは僕の望んだことなんだ。」 「納得できない。」 不意に、白路は私のことを突き飛ばした。前の、アトリエで突き飛ばされた時よりもずっと弱い力だったのに、どうしてか、踏ん張ることが出来ずにたたらを踏んだ。白路はじりじりと後ずさり、おもむろに貯金箱を掴むと力任せに叩き割った。あまりの出来事に私は動くことが出来なかった。強引に割ったせいか右手は出血し、大げさなほどに床に血だまりが出来た。床には無数の金属音と陶器が落ちる音が響いた。彼は床に転がったお金をひっつかむと、私の右手に押し付けたのだ。右手にはっきりとした痛みが響いた。 「出てってくれ。今すぐに!」 すでに手遅れだったのかもしれない。 「短い間でしたが、ありがとうございました。」 私は唇をかみしめながら深く礼をした。適当に荷物をまとめ、数週間いたこの家に背を向けたのだった。  男は叫んでいた。男の中には言いようのない悲しさと怒りと悔しさと。様々な感情が渦巻いていた。男はアトリエに駆け込むと、辺りに立てかけられていた絵画を手あたり次第なげとばしていた。肺が苦しかった。右手がぬるついているという事実に、男はその事実がひどく悔しかった。男は何処までも正気であった。男は刷毛を蹴り飛ばし、今描いているキャンバスに向かって両手の爪を立てた。唸り、号哭する。キャンバスに血の線が弾き飛ばされた。男は確かに啼いていた。それでも涙が流れることはなかった。男は静かにアトリエを後にすると、その足でキッチンへ向かった。男は、積み上げられていた食器をひとつひとつ丁寧に洗って、食器棚へとかたずけていった。 「僕は君が来てくれて嬉しかったんだ。」 静寂の中に、ただただ食器のこすれる音と人工的な水流の音が響く。シンクはざらつきの一つもなく、しかし曇りに曇った鏡面は決して白路の綺麗な顔を映すことはなかった。最後の食器を片すと、男は静かに目を閉じた。 「ありがとう。」
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