売れないぬいぐるみ

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「これ欲しい」  少女が明るい声で言った。  私を指差して、まるで何かを宣言するように。 「うーん。これはちょっとなぁ。他の買ってあげるよ」  少女の右隣に立つ成人男性が笑顔で言う。  こちらを馬鹿にする気が一切ないような―――多分、本当になかったのだろうけれど―――柔らかい笑顔だった。少女と一緒に居るだけで嬉しいと、そう顔に書いてある。  少女の父親なのだろう。 「そうそう。せっかくの誕生日なんだから。それにこの猫ちゃん、その、暗い色だし―――あ、ほら、あっちにピンク色の猫ちゃんも居るよ」  少女の左隣に立つ成人女性が言った。  母親だろうか。少女に似ているが、髪の色が茶色だった。  いつの時代からかは忘れたが、男女問わずこういう髪色の人間を散見するようになり、最近ではそう珍しいものでもなくなった。  私の毛はいつまでも灰色だけれども、人間はこうやって自分の意思で明るい色の毛を手に入れられるのだから羨ましい。私だってもっと明るい色であれば―――せめてこの女のような茶色であれば、『売れ残り』にならずに済んだのかもしれない。 「いやだ。このぬいぐるみがいい。可愛いもん」  少女はブンブンと大きく首を横に振った。  久々にこんなストレートな求愛を受けたような気がする。こんなことを言ってくれる子供に会うたびに、私はやっぱり可愛いのだと思うけれど―――求愛の数以上に、指を差されて怖がられてきた。私の前を通っただけで泣き出す子供も居たくらいだ。  その子たちにはごめんなさい。  でも、自分じゃ変えられないから。 「わかったよ。じゃあ、他のお店のぬいぐるみも見てからまた決めよう」  父親が言った。  柔らかい口調だった。 「やだ。取られちゃう。いま欲しい」  少女はやはり首を振りながら答えた。  取られないよ、私は。だって何年もここに居るのだから。  君もどうせ私を取らないよ。だって、私以外のぬいぐるみは皆かわいいのだから。 「わかった。きーちゃん、ぬいぐるみさん二つ買おう」  母親が少女の頭を撫でながらそう言って、アイコンタクトを送るように父親の方を一瞥(いちべつ)した。父親は嫌な顔一つせずに「そうしよう」と頷いた。  おやおや。なかなか良い夫婦じゃないか。まぁ、あなた方は私が娘の誕生日プレゼントに値しないと判断したから二つ買うことを提案したのだろうけれど。  少女は両親の言葉を聞いてちょっと嬉しそうに、でも何故かどこか悲しそうに―――そんな表情のまま、俯くように頷いた。  どうして悲しそうにしたのだろう。  プレゼントを二つも貰えるというのに。     ・ 「きぃちゃん」  おや。  二人の少女が棚の上に置かれた私を見上げていた。  ピカピカのランドセルを背負った二人組だ。一方には見覚えがある。一年ほど前に私を買おうとした少女だ。小学生に上がったらしい。隣に居る女の子は友達だろうか。大人しそうというか、控えめそうというか―――引っ込み思案がわかってしまうような立ち姿をしている。視線を頻繁に動かし、少しだけ猫背だ。  ちなみに、猫が猫背になるのは狩りをするのに最適だからである。だらけているとか疲れているとか、人間のそれとは違う。まぁ私は、猫は猫でも猫のぬいぐるみなのだけれど。 「きぃちゃん。この猫怖いよ。早く帰ろ。寄り道してることばれたら先生に怒られるよ」 「怖くないよ。可愛いよ」 「でも黒いし、フキツだよ」 「黒くないよ。灰色だよ。フキツって何?」  少女―――きーちゃんは私の方を見つめながらそう問うた。  大人しそうな女の子は私の方を見向きもせずに、きーちゃんの袖を軽く引っ張ってさっさと帰るよう促している。私が怖いのであれば、怖がっているあなたが一人で帰ればいいのに。  なんて意地悪く思ってみたけれど、きっと一人では行動できない子なのだろう。もしくは、縁起が悪いからきーちゃんも一緒に帰さないといけないとでも思っているのだろうか。  私は灰色だから、縁起が悪いわけではない。  ―――いつか私の隣に居た黒猫のぬいぐるみは、私より先に売れたわけだけれども。 「不吉っていうのはエンギが悪いこと。黒猫はそう言われてるの」 「黒くないってば。あとエンギって何?」 「キッキョウの前兆」 「キッキョウって? ふうかちゃん、いっぱい言葉知ってるね」  きーちゃんはそう言って、ふうか―――と呼んだ女の子へ視線を向けた。  もう、私への興味がなくなったらしい。  彼女たちを見比べると、きーちゃんの方がわずかに身長が高かった。二人とも私に背を向けて歩き出し、最近ふうかが読んだという本の話を始めた。  商店街の人ごみに消えていくまで、私は二人の背中に意識を向けていた。  世の中には、ぬいぐるみに絵本を読み聞かせる子供が居るらしい。私も一度くらい、本というものを体験してみたい。物語というものを感じてみたい。ワクワクするのだろうか。発見があるのだろうか。幸せな気持ちになるのだろうか。悲しい気持ちになるのだろうか。猫のぬいぐるみが登場する物語はあるだろうか―――。  灰色の猫のぬいぐるみは、どのように書かれているのだろうか。  もし灰色の猫のぬいぐるみが幸せになるような物語を読んだなら、私も幸せな気持ちになれるのだろうか。     ・ 「きよー。なにみてんのー?」  きよ―――きーちゃんは、私を見つめています。  久しぶりに会えた気がして少しだけ安心したような、嬉しいような気持ちになったけれど―――きーちゃんは飛んできた無粋な声の方に顔を向け、小走りにそちらへ行ってしまった。  昔はジッと私を見つめてくれたけれど、今日はほんの数秒目が合っただけだった。  彼女は制服というものに身を包んでいた。もう少女と言っていい年齢ではないのかもしれないけど、私はどうしても初対面のときの印象が抜けなかった。 「ちょ、きよ、お前ぬいぐるみなんて見てたのかよ」 「もー中学生なんですけど」  きーちゃんが数名の―――恐らく―――同級生と合流したところで、そんな耳に響くような声が発せられた。  ―――幼女趣味じゃん―――ぶりっこかよ、とまるで馬鹿にするようにケタケタと笑っていた。  あれらが、今の彼女の友達なのだろうか。小学生の頃によく一緒に来てくれたふうかという女の子はどこに行ったのだろう。きーちゃんの友人を悪く言いたくはないが、今の子たちよりふうかの方が圧倒的に好印象である。 「きよ、マジ猫かぶりじゃん」 「お、猫のぬいぐるみだけに? マジウケるわ」  笑えないけれど。  なんだかイライラするが、まぁ―――とやかく言う口もなければ表情だって変えられないので、いつも通りのぶきっちょ面で見つめてやろう。  ―――ふむ。  それにしても、きーちゃん。君のその乾いたような笑顔は何だい。もっと上手に笑える子だったのに。引っ込み思案なふうかだってもっと楽しそうに笑う。  まぁふうかは、私の方を見て笑ったことは一度もないけれど。     ・ 「あ」 「あ」 「久しぶり、かな」 「久しぶり、だね。多分」 「きーちゃん、まだこのぬいぐるみに通ってたんだ」 「きーちゃんって呼び方、やめてって言ってるでしょ」 「トモダチと上手にやれてるの?」 「やれてるよ。クラス一緒なんだから見てたらわかるでしょ」 「見た上で聞いてるの」 「………」  険悪ムードである。  きーちゃんとふうか。この組み合わせを望んでいたはずなのに、どうも私の望んでいる雰囲気とは違う。違うどころか、正反対である。喧嘩でもしたのだろうか。  原因については皆目見当も付かないけれど、とりあえず仲直りして欲しい。 「ふうかこそ、友達の一人くらい作ったら? クラスで浮いてるよ。いっつも本読んでる根暗な子だって」  まぁ、きーちゃんってば何てことを言うのでしょう。  きーちゃんだって、ふうかに感化されて本を読むようになったくせに。中学生になった途端、どうしてこんなすれ違いが発生するのだろう。小学生の頃のように、一緒に帰って、一緒に好きな本や好きな人の話でもしながら私の前を通り過ぎればいいのに。  ときどき私に気付いてくれれば、話しかけてくれれば、それだけでいいのに。 「部活に友達いるもん。無理やり話合わせなくても、同じ目線でお話しできる友達だよ。きーちゃんも本好きなんだから入ればいいのに」 「文芸部なんて嫌だよ。それに別に、本好きじゃないし」 「え」  そうだったんだ、とふうかは雀が鳴くような声で言って俯いた。  あ―――、ときーちゃんが半歩だけ前に出る。多分本が好きじゃないのは嘘で、そんな自分の嘘で友達を傷付けてしまったと気付いたのだろう。  もし本当に本が好きじゃないのなら、小学生の頃一緒に楽しく話していたことも全部嘘になってしまう。ふうかはそう思って傷付いたのだろう。  物言えぬ私には、そんな風に二人の心情を推し量ることしかできない。 「でも、別に、本が嫌いって、わけでも………ないけど」  今度はきーちゃんが雀のさえずりのような声で言った。  私の目前で、沈黙という名の見えぬ岩が二人にのしかかっているように思えた。例えば言葉が話せたとして、私はここで何が言えただろうか。きっと、何を言っても二人には響かなかったと思う。  では、抱きしめればいいのだろうか。  でも、抱き合うだけで仲違いが解決するなら人類は抱きしめ合いながら歩くよう進化したはずだ。もちろんそんな進化は辿っていないから、私のようなぬいぐるみが作られたのではないだろうか。少しでも、誰かに安らぎを与えるために。  であるならば、目の前で喧嘩をさせてしまっている私はどれだけ無能なのだろう。 「じゃあ、きよ。また学校で」  ふうかは俯いたままそう言うと、踵を返して走るように去っていった。  きよ―――と、そう呼んでいた。氷の手で胸を掴まれるような、この痛みは何だろうか。人間は、誰かと争うたびにこんな気持ちになっているのだろうか。 「もぉ。ばか、わたし。ネコちゃん、助けて」  きーちゃんは私の座る棚にもたれるようにして、俯いながらしゃがみ込んだ。  私を見て、怖がる子供は居た。  私を見て、泣く子供も居た。  私を見て、避けるように歩く子供も居た。  もはやそんな些末なことは気にしなくなった。最初から嫌われているのだから、もう私にはどうしようもない。でも、きーちゃんは違った。私を欲しいと言ってくれた。私に好感を持ってくれた。  自分を好いてくれている人が目の前で悲しむというのは、こんなにも辛いことなのだと初めて知った。  久方ぶりに、私は私を恨んだ。私がぶきっちょ面でなければ、私の毛が灰色でなければ、もっと可愛げがあれば―――。  でも、何もない私であなたが少しでも安らげるのなら、私はいつまでもここに居たい。いつまでも売れ残っている私が、きーちゃんとふうかの共通の思い出になれるのなら―――きっとそのとき、私は自分を誇りに思うだろう。  きっと自分を好きになるだろう。     ・ 「喧嘩したときさ、どうやって仲直りしたんだっけ?」 「ふうかが昔勧めてくれた本読んで、その感想を長文で送った。最後に『ごめん』って書いて。あとこの子の写真も送った」  きーちゃんはそう言って、私を指差した。  あんなに小さかった少女が、私のことを『この子』と呼ぶとは。 「思い出した。あの長文、ちょっと引いたよ。きーちゃん壊れたのかと思ったもん」 「だって良い方法思い付かなかったし」 「だとしてもさ、ぬいぐるみの写真、必要だった?」 「必要だよ。私一人じゃ送る勇気なかった」 「じゃあ、この子が居なかったら仲直りできてなかったかもしれないんだ」 「ま、そうかも」  きーちゃんとふうかが同時に私に顔を向けた。  下の方から棚に乗る私を見つめていた二人も、今では私と同じ目線になった。高校の制服を着て、姿も振る舞いも口振りも落ち着きがあり、少女の面影は過去のものになった。  大人―――とは、まだ言えないけれど。  いや、多分、私は彼女たちを大人と言いたくないだけだ。大人になったら、私の前から居なくなってしまうような気がするから。 「この子に感謝しないとね」 「いつもしてるよ」  二人は私から目を逸らして、お互いの顔を見合いながら小さく微笑んだ。  結局彼女たちは私を買わなかったけれど、結局私は誰のプレゼントにもならなかったけれど―――二人の()りを戻せたのなら、笑顔が返り咲いたのなら、もう満足である。  ―――あぁ、そうか。  私より先に売れていった子も、私より可愛かったあの子も、きっと誰かの幸せのために買われていったのだろう。好きな人へ、大切な人へ、もちろん自分へのプレゼントだろうと―――誰かを笑顔にしたいという願いを込められて、様々な人の元へ旅立ったのだろう。 「結局きーちゃんはさ、この猫のぬいぐるみ買わないの? 好きなんでしょ」 「え? この子、非売品だよ」 「え」 「え」  え。 「ふうか知らなかったの?」 「全然知らなかったよ」  私も知らなかった。 「そっか。この子、非売品なんだ」 「うん。だから買えないの。小さい頃に欲しいってねだったときも、父さんも母さんも非売品だから困ったんだって」 「そっか。それじゃあ、この子はずっとここに居るんだね」 「そうだね―――」  きーちゃんが私を見つめる。  目が合った―――と、不思議とそんな感覚があった。 「―――これからも、私たちのこと見守っててね」  私に本は読めないけれど、二人の未来を見ることができる。  彼女たちがどんな未来を紡ぐのか、それを想像するだけでワクワクした。  今なら、多分、うまく笑える気がした。
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