某家守近、わからんちんの髭モジャ男を雇うのこと

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──その騒ぎに乗じて、守近の屋敷から、人目を気にしつつ抜け出す女がいた。 女房の、(たちばな)である。 木綿の衣に、小さな包みを持つ姿は、一見、北の方付きの女房とは思えない、ただの下働きの女といった(てい)だった。 橘は、騒ぎの責任を感じ、守近の屋敷を去った。願え出れば、更なる騒ぎになると、人知れず逃げ出したのだ。 大路の雑踏を、歩き続ける──。 身を寄せるあてもなく、目的もなく、ただ、人の流れに沿って歩んでいく。 包みの中には、簡単な着替えと、少しばかりの(かね)はある。今夜一晩、宿に泊まるか……、いや、女一人の客を、宿屋も、あっさり泊めるはずがない。 下手すれば、有り金全部巻き上げられ、そのまま、下働きにされてしまうか、もしくは、どこかに、売られてしまうか。 それでも、良いのではなかろうか。どうせ、いくあてのない身の上なのだから。 ただ……、世話になった(あるじ)に、恩を仇で返すようなことをしてしまった。 それだけが、心残りだった。 歩む大路から、人が消えていく。登っていた日輪は沈み始め、怪しい影を落としていた。 ──逢魔(おうま)が時。 不吉な言葉が、橘の脳裏をかすめた。 「おい、(おなご)。どうした、行くあてがないのか?」 背後から低い男の声がかかる。 「どうぞ、ご心配なく。(わたくし)急いでおりますので」 「あー、仕える屋敷を追い出されたか……。全く、醜い事を……」 うっかり女房の、癖が出てしまったと、橘は、焦った。相手に、女房であるとバレてしまったかは定かでない。しかし、屋敷奉公していた女、と、わかってしまったようだ。 橘は、駆け出した。 逃げなければ。男は、橘目当てに声をかけてきた。今の橘は、庶民の格好をしているが、それでも、屋敷で用意した木綿生地。質は、やはり、良い物だ。身繕いが、浮いていたのかもしれない。 華やか都──、今や、それが、仇となり、得たいの知れない輩が集まって、悪さを行っていた。 特に、狙われるのが、貴族の子女と側支え、つまり、女房達。 目的は、まず、衣。立場上、上質な絹生地のものを(まと)っている為、売れば、かなりの値でさばける。そして、言わずとしれた、その体──。 橘は、どうにでも……、と、自暴自棄になっていたが、いざ、事が我が身に降りかかって来ると、恐ろしくなり、膝が震えて、走るのも精一杯だった。 「おいおい!待て、待て!勘違いするな!」 やはり、男の足には勝てない。すぐに、橘は、追い付かれてしまう。 「女の一人歩きは、危ない。何があったか知らんが、とりあえず、仕えていた屋敷に戻れ。ワシが送ってやる。なんなら、とりなしてやるぞ」 「……あ、あなた様は!」 声をかけてきたのは、橘にも見覚えのある男だった。
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