15人が本棚に入れています
本棚に追加
──その騒ぎに乗じて、守近の屋敷から、人目を気にしつつ抜け出す女がいた。
女房の、橘である。
木綿の衣に、小さな包みを持つ姿は、一見、北の方付きの女房とは思えない、ただの下働きの女といった体だった。
橘は、騒ぎの責任を感じ、守近の屋敷を去った。願え出れば、更なる騒ぎになると、人知れず逃げ出したのだ。
大路の雑踏を、歩き続ける──。
身を寄せるあてもなく、目的もなく、ただ、人の流れに沿って歩んでいく。
包みの中には、簡単な着替えと、少しばかりの銭はある。今夜一晩、宿に泊まるか……、いや、女一人の客を、宿屋も、あっさり泊めるはずがない。
下手すれば、有り金全部巻き上げられ、そのまま、下働きにされてしまうか、もしくは、どこかに、売られてしまうか。
それでも、良いのではなかろうか。どうせ、いくあてのない身の上なのだから。
ただ……、世話になった主に、恩を仇で返すようなことをしてしまった。
それだけが、心残りだった。
歩む大路から、人が消えていく。登っていた日輪は沈み始め、怪しい影を落としていた。
──逢魔が時。
不吉な言葉が、橘の脳裏をかすめた。
「おい、女。どうした、行くあてがないのか?」
背後から低い男の声がかかる。
「どうぞ、ご心配なく。私急いでおりますので」
「あー、仕える屋敷を追い出されたか……。全く、醜い事を……」
うっかり女房の、癖が出てしまったと、橘は、焦った。相手に、女房であるとバレてしまったかは定かでない。しかし、屋敷奉公していた女、と、わかってしまったようだ。
橘は、駆け出した。
逃げなければ。男は、橘目当てに声をかけてきた。今の橘は、庶民の格好をしているが、それでも、屋敷で用意した木綿生地。質は、やはり、良い物だ。身繕いが、浮いていたのかもしれない。
華やか都──、今や、それが、仇となり、得たいの知れない輩が集まって、悪さを行っていた。
特に、狙われるのが、貴族の子女と側支え、つまり、女房達。
目的は、まず、衣。立場上、上質な絹生地のものを纏っている為、売れば、かなりの値でさばける。そして、言わずとしれた、その体──。
橘は、どうにでも……、と、自暴自棄になっていたが、いざ、事が我が身に降りかかって来ると、恐ろしくなり、膝が震えて、走るのも精一杯だった。
「おいおい!待て、待て!勘違いするな!」
やはり、男の足には勝てない。すぐに、橘は、追い付かれてしまう。
「女の一人歩きは、危ない。何があったか知らんが、とりあえず、仕えていた屋敷に戻れ。ワシが送ってやる。なんなら、とりなしてやるぞ」
「……あ、あなた様は!」
声をかけてきたのは、橘にも見覚えのある男だった。
最初のコメントを投稿しよう!