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 右斜め向かいの席に座っていた猫塚偏理(ねこづか・へんり)くんが意を決して立ち上がったのは、17時を少し過ぎたところだった。  今月、入社したばかりの彼は、獣人――猫虎族(びょうこぞく)の青年だ。  青みを帯びた灰色の毛並みの長身を、猫背ぎみに屈めて忍び足のような、しかし滑るように素早くわたしの右隣に近づいてきた。 「――あ、あの、すみません。ちょっと、いいですか?」  定時まで1時間とちょっと。  帰りを邪魔することに後ろめたさを感じているのか、頭の上の三角耳を平べったく倒している。いつもは鞭のように細長い尻尾は、今はビンを洗うブラシのように逆立っている。緊張しているのだろう。  種は違えど、彼もまたと同じく、考えていることが尻尾に出るタイプらしい。動き方は違うけれど、少し見れば何を考えているのか見当がついた。    大丈夫だよ。何か困ったことでもあった?  途中まで進めていた作業のデータを保存してから、猫塚くんの顔を見上げる。  今の季節――4月上旬にぴったりの淡いピンクのシャツが、青灰色の毛並みによく映える。モデルか俳優と言っても通じるような整った面差しに、オレンジがかった金色の目。  ただ、今は慣れない仕事のせいか、緊張と疲労ばかりが目立って気の毒だ。   「ええと、書類の記載についてなんですけど」  そっちに行って話をしよう。そう言って立ち上がるわたしを見て   「いや! そ、そんなわざわざ! だ、大丈夫ですから!」  つい大きくなる声に、周囲の何人かが視線を向ける。    困ったところは横で説明するから、実際にやってみよう。ほら早く。  うろたえたままの猫塚くんを席まで押しやって座らせる。   「えっと、これなんですけど。――その、前にも、教わりましたし」  気にすることはないよと言いながら画面を覗き込む。  見たところ、大きな間違いはなさそうだ。    入社してまだ間もないのに、ここまで出来るのは大したものだよ。わたしが言うと 「そ、そうですかね。えへへ。あ、ありがとう、ございます」  目をそわそわと宙を泳がせながらも、嬉しそうに言葉を返す。初々しい。    分からないのはここと、そこの項目だね。そこは―― 「(おおとり)くん、他人の面倒を見るのは良いが、君の仕事は終わったのか?」  後ろを向くと、五十過ぎの人間種男性――渡部(わたべ)係長の仏頂面があった。
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