三味線

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 梅の花弁が重力に負けて舞い落ち、土塊(つちくれ)に混ざり合った頃。  村に住む二つ下の生稲(おいね)が、見違えたような着物を翻し翻し道ゆくのを、与助は久方ぶりに目にした。  傍らには、幼少の頃に恐ろしいと感じた狛犬(こまいぬ)が、変わらぬ外貌で自分たちを(にら)んでいる。  生稲は此方(こちら)をちらと見て、それから物言わぬまま神社の向うに姿を消した。  隣村の庄屋に嫁ぐことになったとは人()てに聞いていた。  おいね、と口から出かかった音の塊は、像を結ぶ前に霧散した。  与助ちゃんのばか。という泣き濡れた声が、遥か昔に発されたものであるにも関わらず、与助の言葉を封じたのだ。  あれは、尋常小学校も半ばの時分であったか。与助は記憶を巡らせる。  生稲が、平生(へいぜい)は花の一輪開いたように顔全体で笑む生娘が、悄然として与助の学級の外を過ぎ去らんとした。  学制が発布されたとは()え、僻地(へきち)では未だ、女子(おなご)に教育は無用の考えが根強い時代である。  村の内では先進的な家に育った生稲の姿は、女子の少ない学び()で際立っていた。 「生稲よう、どうしたんだ」  同級の仙太郎が与助より早く声を掛けると、生稲は潤んだ瞳を(もた)げた。 「仙太郎ちゃん……みちが帰ってこんのよ」 「なんだ、みちって。おまえとこの飼い猫か」  みち。その名には聞き覚えがあった。  生稲はよく笑う娘で声も高らかであったから、田んぼの畦道(あぜみち)で、みち、みち、みっちゃん、と(うた)うように駆けていたのを、かねて見かけていた。  その星が転がるような幼気(いたいけ)な目線の先に、ふっくらとした体毛で堂々と風を切っていたのが栗色の()び猫だった。  古びた門扉(もんぴ)の錆びを思わせる体色のその猫は、(ねずみ)を捕らなくなり打ち捨てられた野良猫が多い界隈でもよく目立つ。  餌付(えづ)けされているのか、人にもよく手慣れている様子だった。  一度は、すぐ(そば)餓鬼(がき)大将の平六(へいろく)が上級生と取っ組み合いの喧嘩をしていた時でさえ、鷹揚に顔を洗っていた。  決着がつかぬうちに辺りは驟雨(しゅうう)に見舞われ、野次馬もろとも散会させられたのが滑稽であった。  猫風情らしからぬ不遜(ふそん)な態度が、妙に印象深かったものだ。
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