三味線

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 作り手と一口に云えども、一般の民がまず想像するような三味線の組み立てを担う三弦師(さんげんし)のほかにも、種々の職人がいる。  三味線を組み立てるには各部品――たとえば弦を響かせる土台に張られる膜として、猫や犬の皮を綿密に洗浄した後、血を抜き、毛を抜き、脂を抜き、乾燥させた品が必要なのだ。  そこに関わるのが、素材となる胴皮(どうひ)を加工する与助ら下請けの職人たち。  さらにそれより以前には、動物の(むくろ)から皮膚を()がす仕事もあれば、動物を骸にする仕事もある。  国宝級の演奏であろうと元を辿れば殺生(せっしょう)、見目麗しい三味線も生き物の(からだ)に行き着く。  徳川家五代将軍綱吉(つなよし)公の治世にあっては、みだりに動物の殺生を禁ずる風潮が醸成され、かつて料亭でも供されていた犬食は一時(いっとき)(いや)しめられた。  明治も半ばを過ぎた今となっては、三味線も居場所を失いつつある。  偏見や差別の度合いは、猫から三味線への変遷を(さかのぼ)った上流に向かうほど苛烈なものとなった。  その空気に直接当てられたことのない与助でさえ、いつの頃からか己の家の置かれた境遇を解するようになっていた。  その現実を隠し立てしない親父の言葉は、未だ柔らかい与助の心に染み渡っていった。  おれはな与助、一生を()して犬猫の皮を張り続けるんじゃ。伝統文化の繋ぎ手なんちゅう、大それたもんを気取っとるわけじゃない。貧しいからでもない。  強いて言うなら、ただ継いだから、それだけだ。(いと)う者がおろうとも、それが当家代々の宿命なのだからな。  そうして廻るのが我が命なら、三味線として転生を遂げる猫らとて、一つの命の巡り合わせということよ。  鶏や魚を(ほふ)り、水田で伸びゆく稲から(かて)を得て、己らの血肉を(たぎ)らせるのと変わりないんじゃ。  親父の口調に(たかぶ)りはないが、何人(なんびと)の反論をも許さぬ強さがそこにはあった。  しかし幼い時分の与助にとってその精神を引き継ぎ、三味線の(きも)はほかでもない胴皮であると、誇りに転じることは容易ではなかった。
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