感情を呼ぶ。

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「ねえ、藍田くんってさ、リアクションいつも同じだよね」 「……え?」 「いや、なんていうか……十円落として悲しいも、友達が死んで悲しいも、同じ温度って言うか……」 「……? 『悲しい』は『悲しい』だろ?」  クラスメイトの女子は、僕の答えに何とも言えない顔をした後、曖昧に笑みを浮かべた。  普通と呼ばれる人達を観察して、僕は『愛想笑い』というものの種類について理解していた。  表情は笑顔なのに、おそらく感情は伴わない。それはきっと、もっと完璧な仮面に近いものだ。  普通の人でも、感情を選んで出すことが出来る。  それよりも更に、感情と表情や言動を切り離して使用することも出来る。  それに気付いて、僕はその便利さを学びたいと感じた。  僕の感情は呼べば正しく出てくるけれど、応用は利かなかったのだ。 『悲しみ』を呼んだら必ず泣いてしまうし、『怒り』を呼んだら拳を握り締めて何か手近な物に当たってしまう。  感情を切り離したり細分化出来るなら、せめて加減の調整を出来るようになりたかった。  そうして月日は流れ、僕は役者の道を選んだ。  脚本が決まっているのなら、それに合わせた感情を呼んでくればいい。  演出家が具体的な指示をくれるなら、それを指標に調整を学べばいい。  演技というのは、自分が感じていない感情を台詞と動きで表現する仮面のようなものだと思っていた。僕の学びたい物の一部だと思った。  しかし、実際にプロの演技を間近に見て、すぐに分かった。  役者は、気持ちから作るのだ。  脚本を読んだそのまま判断するのではなく、噛み砕いて役への解釈を深めて、その役に自分を重ねる。  そして物語の進行に合わせてその人生を役として追体験することで、内側から感情が溢れて、それを魅せる演技として表現する。  仮面どころではない。彼らは読み取った脚本から、感情を一から練り上げるのだ。  恋人の死ぬ悲劇だから、クライマックスで『悲しみを呼べ!』と叫んだところで、その悲しみは突発的に出てきた固定された『悲しみ』であり、そこに至るまでの感情の起伏や、その状況に置かれたリアルな悲しみは得られない。  勿論、役者も本当に恋人が死んでいる訳ではないのだから、リアルというのも可笑しな話だが。  それにしたって、演技の中でそれが現実と錯覚するような、そんな体験だった。  そして自分が今まで感覚として理解していたはずの『感情』が、薄っぺらいテンプレートだったと実感した。  テンプレートだったから、選ぶ作業が必要で、単発で、応用も利かなかったのだ。  僕は本格的に、演技の勉強をした。  特に舞台演劇は、一公演一公演同じことの繰り返しなのに、その時々の要素や掛け合いの相手の様子で表現が変わったりする。  それが難しくて、面白くて、いつしか夢中になっていた。  もう僕が、感情のテンプレートを呼ぶことはないだろう。  鍵をかけて、心の奥底に閉じ込める。  最初こそテンプレート頼りだったものの、仲間の演技に影響され、次第に一度役に入ると自然と台詞と共に感情が湧き上がるようになっていた。  僕ではない誰かになると、僕の中には無かった感情も、感覚も、この胸一杯に渦巻くのだ。  それを表現するのは、どんな完璧な仮面よりも素晴らしいことのように思えた。  役者はまさに、僕の理想の天職だった。  舞台の上で役を演じることで、その瞬間は別の人間の人生を生きられるのだ。 *******
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