エピローグ

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 ステージに出てきた宮下さんは、淡いピンクのドレスで美しく着飾っていて、プッチーニの『トスカ』のアリア「歌に生き、恋に生き」では柔らかく豊かでよく通る歌声を響かせた。久しぶりに見る渡瀬先輩は淡々と、美しい音で自然にピアノ伴奏していた。  テノールとソプラノが慈しみ合うようなヴェルディのオペラ『椿姫』の二重唱(デュエット)「パリを離れて」もあり、優しく愛おしむ音楽の光景を観ていた。  渡瀬先輩のフォーレは、ただただ懐かしかった。渡瀬先輩が演奏するこの曲が湛えている深い哀しみを聴いて、このひとを好きになった気がする。  そういえば友人とのジョイントコンサートでこの曲を弾きたいって言ってた。実現したんだな……  ジョイントコンサート終演後、ロビーに出ていた渡瀬先輩に挨拶に行った。  私を見ると渡瀬先輩の顔がくしゃっと(ほころ)んで、くだけた笑顔を見せてくれたのが嬉しくて、数年ぶりなのに、あの頃みたいに話すことができた。 「ここまで来てくれてありがとう。遠かったんじゃない?」 「いえ、そんなでもないですよ。先輩のフォーレ、久しぶりに聴けて良かったです」 「ありがと」 「……先輩は博士論文、出せたんですか?」 「うん、出せた。博士はちゃんと取れたよ」 「そうですか。それは良かったです、ほんとに」 「水沢さんはどうしてる?」 「私ですか? コールセンターで働いてます」 「電話対応、水沢さんうまそうだなぁ」 「全然ですよ。でもなんとかやってます」 「そっか……僕は今、東京の女子大で助手やってるんだよね。月収五万だよ」  渡瀬先輩は少しおどけた感じで、月収を明るく自嘲した。そんなん言わなくたっていいのに、渡瀬先輩は正直だなぁ、と思って笑ってしまった。  私の胸元でネックレスの小さな十字が、清廉な輝きを見せていた。               (了) 引用文献 博士論文『ハインリヒ・シェンカーのピアノ演奏論』 和田紘平 参考文献 『ベートーヴェンの生涯』 ロマン・ロラン 『ベートーヴェン“不滅の恋人” の謎を解く』 青木やよい
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