最終章

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 夜が明ければ大晦日。 「鐘が五十打たれる頃、町を出る」  無慚は言った。  その後目覚めた三郎治もそれについてゆくと言う。目指すは蕎麦屋主人の故郷、九州は筑前の黒田領遠賀郡──意外にも無慚は、蕎麦のよしみで主人に力を貸してやるつもりらしい。  三郎治は親に宛てて急ぎ筆を執り、泰吉は晦日の朝を迎えるやすぐさまふなの元へ駆け、無慚出立の報を伝えた。  ふなはたいそう残念がった。  当夜に出ると聞き、彼女はわざわざ無慚と三郎治が潜伏する廃寺まで足労し、ささやかながら団子屋にて送別の宴を開こうと提案。が、無慚は丁重に断りを入れた。とかく町の人間に知られぬうちに退散したいからという理由らしい。  それからは餞別の団子を風呂敷ごと無慚へ託し、他愛ない世間話をした。  解決しただろう事件の顛末については、 「たいへんやったね。いろいろ」  と、ただ眉を下げてわらうのみ。  うなだれる三郎治を見てなにかしら察したのかもしれぬ。ふなは瞳に涙を浮かべて、無慚と三郎治の手を握り、何度も激励を繰り返した。  ────。  先ほど、二つ目の鐘が鳴った。  無慚と蕎麦屋主人、三郎治は宵闇のなか難波へ向かうべく出立準備も佳境に入る。難波まで出ればそこからは瀬戸の内海を通って門司から筑前へゆくことができるからである。  替えの草履を詰める三郎治が、ふと手を止めた。 「兄貴──俺、ほんまにええんやろか」 「なにが」 「このまま生きて、兄貴のそばに居って、俺──いつかまたおんなしことしてまいそうで怖いんです。いつか、兄貴のことまでころしてもうたら」 「はん、だァれがてめえなぞにころされてやるものか。どうせここに捨て置いたらお前、いずれおのが腹をかっさばくつもりだろう。そんなことはおれが許さねえぞ」 「…………」 「命を天に還した罪は、てめえの一生かけてその背に負わなきゃなるめえ。この世に遺していっちまうのがいちばん無責任なことだ。逃げるなよ」 「……ッ」 「心配するな、おれにも責任の一端はある。ちっとくらいは面倒見てやるよ。なあ蕎麦屋」   突然、無慚は明るい声を出す。  終始沈黙を貫いていた蕎麦屋主人の肩が揺れた。話を振られたことに動揺している。 「じ、自分ですか」 「そっちの用を済ませるうちは、おめえさんにも三郎治の子守りを手伝ってもらうとしようかね」 「フフ──狐憑きの正体見たり、でしたからな。そのくらいは朝飯前ですよ」 「こ、子守りやなんてそんなっ」  三郎治の頬が赤くなる。  遠くで三つ目の鐘が鳴った。無慚がすっくと立ち上がる。 「そろそろ行くか」 「え? 五十ではなかったでしたっけ」 「んなもん嘘に決まっとろう。どうせおふなあたりが、三十あたりになったら見送りだっつってふらりと来るに違いねえ。しんみり送り出されちゃ迷惑だ──よう蕎麦屋、船の手配はどうだ」 「心配御座らん。手前の方で手配済みです」 「よし」  と。  無慚一行が、難波方面への裏道に出たときである。ふいに先頭を歩く無慚の足が止まった。続くふたりが何事かと顔を見合わせる。  が、そのわけはすぐに分かった。  猫。猫。猫──。  道をふさぐようにずらりと野良猫たちが立ち並んでいるのである。こうも数があると、闇のなかでぎらりと光る瞳が不気味に映る。  やがて猫行列の真ん中が割れ、一匹の黒猫がしずしずと前に出た。この数日間、さんざ無慚に付きまとっていたコテツであった。 「む──無慚の兄貴」 「よお、コテツ」  無慚がつぶやいた。  その瞳が優しげに揺れる。少なからずこの猫に情を抱いていたようで、その顔色は少々寂しげに曇った。 「見送りご苦労。だがもういい、はように住処へ戻れ。また変なものが湧いて、おめェたちを殺すともかぎらんぞ」 「あっ。……」  三郎治は肩を揺らした。  連なる猫たちを前に、ゆっくりと歩みを進め、跪く。 「俺が──お前たちの仲間をころしてもうたんやな。ホンマに、ホンマに堪忍やで。ごめんな。ごめん──」 「…………」 「許してくれなんて言わへん。この業は、俺が背負って持っていく。一生を懸けて罪償いする。あの子ォらの冥福を、お前たちの幸先を、一生懸けて祈ってゆくさかいに」 「にゃあ」  コテツが鳴いた。  その一声につられて、うしろに控える野良猫たちが一斉に鳴き出す。なにを言っているのか──と三郎治が無慚を見た。  彼は片眉をあげて、 「励め、とよ」  可笑しそうにわらった。  背中が重い。  と、三郎治はいまいちど猫の群れへ頭を垂れて、ぽろりと涙をひとつこぼす。背負った業はあまりにも重すぎる。しかしそれもすべて、意識は違えどこの手でおこなわれた蛮行でもある。  逃げるなよ。  兄貴分のことばが、ふたたび脳裏に木霊する。 「俺、がんばります」  三郎治はぐいと涙をぬぐって立ち上がった。  ふいに無慚が月夜の空を見上げる。 「この世は夢物語だ。三郎治」 「エ?」 「煩悩にまみれたこの夢も、みないつの日か冥土で目醒めるときがくる。──そのとき、先に目醒めていった娘たちや畜生どもに、まっすぐ向き合えるよう……この夢を一所懸命に描いてゆけ」 「…………」 「かならず、その荷もお前の糧となる」 「兄貴──」 「おなじ立場のおれが言うのだ。間違いない」  無慚はニカッとわらった。  とたん、草木が騒ぎだす。  ざわざわざわ。ざわざわ。ざわ。  一陣の風が吹く。  ふたたび歩みをすすめかけた無慚の足がまた、止まる。  首をかしげて声を聞く。  風が、便りを運んできた。  ──達者で暮らせよ。  岡部。  ──つぎ帰るときは酒の土産も持ってこい!  泰吉。  ──無事を祈る。  惣兵衛。  ──いつでも帰っておいでやす。待ってますよ。  おふな。 「──フ、」  無慚がわらった。そのときだった。 「無慚さまーッ」  と。  木々が割れんばかりの大声が、背後から響く。  なんだなんだと一同がうしろを振り向いた。向いて、一様に目を見開く。  そこにいたのは本間米屋のひとり娘──こいと。  その脇には、たったいま便りを受け取ったばかりの岡部と惣兵衛が立っている。 「お──めえら、こんなところで何を」 「やはりそろそろ出立するところやったか。猫たちに足止めを頼んで助かったな」と、岡部。 「ホンマや水くさい。別れの挨拶くらい、風の便りやのうて生声で言わせてや」とは、惣兵衛。 「チッ……」  苦々しく舌打ちをした無慚の胸に、ちいさな身体が飛び込んできた。 「無慚さまッ」  こいとである。  無慚の袈裟に顔を押しつけて、別れを惜しむように何度も何度も、無慚を呼ぶ。 「おい、なにしてる」 「やっぱりひどいお人や。聞いたとおりやった」 「…………」 「こいとのことも連れてって」 「阿呆か。無理に決まっとる」 「どうして?」 「ガキのお守りはひとりでたくさんだ」  ちらと三郎治を見た。視線を受けた三郎治は、肩をすくめて恐縮する。  しかしこいとはめげなかった。 「ほんなら──ガキやのうて、大人の女になったらええのん?」 「…………お前がそうなるまで待つつもりは毛頭ねえよ。いいから離れろ」 「女が苦手なくせに」 「アァ? 喧嘩売るなら買うてやるぞ」 「あ、でもせやったらよそで女は作らへんか」 「イヤおい」 「無慚さま!」 「ウッ」  こいとが瞳をキラキラと光らせる。  この宵闇のなか、それがあまりに眩しくて無慚はおもわず目をつぶる。こいとが無慚の胸ぐらを掴む気配がした。 「ほんなら私、つぎに無慚さまが此処帰ってきはるまでに、ぜったいええ女になっとります。絶対ぜったい。ゼッタイ!」 「て、てめえ──」 「せやからゼッタイ、よそで女つくったあきまへんえ! 絶対ぜったい。ゼッタイ!」 「うるせえなこの、」  と、無慚が目を開けたとき。  こいとは精一杯かかとを伸ばして、無慚のくちびるに口付けた。  おもわぬ事に、ギョッと目を見開く無慚。  頬を真っ赤に火照らせて、しかし満足げに笑みすら浮かべて、こいとはキャッと頬を抑えて岡部たちのもとへ駆け戻る。  つられて頬を赤らめる岡部に、やれやれと微笑ましげに笑む惣兵衛。無慚はくらりと目眩がするのをこらえて、 「勘弁してくれ──」  とつぶやいた。  鐘は、まもなく五つ目の音を鳴らしている。  ※ 「んぐ」  ところてんを頬張る泰吉が、鐘の音を聞く。  関西人にはめずらしく酢醤油のところてんが好きだという彼は、昔からふなに無理を言って泰吉仕様に仕上げてもらっている。本来関西におけるところてんは黒蜜と決まっているのである。  ここはふなの母屋。  ずいぶんむかしに寡婦となったふなが、ひとりぼっちの年明けとなるのを防ぐべく、泰吉が団子屋裏の母屋にて、年越し蕎麦ならぬ年越しところてんを頬張っているところである。  泰吉だけではない。  つい先ほどまで岡部や惣兵衛、こいとまでもがここに集っていた。が、泰吉が「そろそろ無慚出立やろな」と呟いたのを皮切りに、こいとが飛び出し、その護衛のために岡部と惣兵衛も泣く泣くついていったというわけだ。  泰吉は腰も浮かさなんだ。  若者衆の頃から、実の息子のように接してくれたふなのことは、無慚だけでなく泰吉も例に漏れず母のごとく慕っている。今宵の寒さのなか、ひとりぼっちにさせるのは気が引けた。  ふなが縁側から外を見る。 「あの子はもう行ってもうたかねェ」 「むん。さっきのが五つ目やろ、鐘が五十撞いたら出立するなぞ嘘に決まっとるわ。もう出た頃やろな! あんにゃろは嘘が下手くそでいかん」 「泰吉っちゃんは、ホンマに無慚のことようく分かっとるね。おふなは嬉しおす」 「“無慚”なぞ知らんわい。わしが知っとるんはそない名ァとちゃう」 「せやね。──けど、無慚は『無慚』として、自分の業を刻んでもうたんや。おのれの過ちを一生忘れへんと、生きるために」  ふなは茶を啜る。  フン、と泰吉が気に食わなそうに鼻をならした。 「なァにが破戒僧無慚や。ただ、馬鹿がつくほどのお人好しなだけやで!」  ふなはコロコロとわらう。  七つ目の鐘が響く。 (終)
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