第一章

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 落ちつけるところにゆこう、と。  どちらともなく言いだして、心斎橋南詰の付近にある饂飩そば切り屋に立ち寄った。しかめ面の同心が鶏卵うどん、荒くれ坊主がしっぽく蕎麦を注文する。早々岡部が懐から帳面をとりだした。これまで調べた事件の概要を、一から見直すためである。  事の起こりは十日前のこと。  下船場淡路町筋にある水茶屋娘のおけいが、南堀江に居を構える大坂一の炭問屋『辰巳屋』近くの橋の下、橋脚に引っかかっていたところを発見された。死体からは両目が抜き取られており、からだに傷こそなかったが、水による腐敗が進行。死後三日ていどは経っているものとおもわれた。  二人目の娘は五日前。  南地五花街のひとつ九郎右衛門町の新米芸妓が、早朝の大黒橋下、川面に浮いているのが発見された。彼女は昨夜までふつうに稽古していたところを目撃されており、いったいいつ外へ出たのか──と、店の主人が首をひねった。  そして昨日が三人目。  戎橋にころがった彼女の身元はまもなく、北堀江の青物屋娘とみ子であると判明した。彼女は昨日の朝、「天満の天神さんにお詣りしてくる」といったきりそのまま還らぬ人となったとか。 「住む場所も商売も、まるで関わりがない」  と帳面をにらみつける岡部がいった。  このあたりではめずらしく口数のすくない主人が、無言のままにどんぶりを置く。その面立ちを見るにまだ若い。さっそく無慚は合掌し、ひたすらにそばをすすった。対する岡部は置かれたうどんへは見向きもせず、帳面から目をはなさない。 「通じるところがあるとすれば、みな年若な娘ということだけや」 「若い娘で通じているなら、男関係が怪しかろう。調べたか」 「おけいもとみ子もおぼこや。少なくとも親はそう申した」  岡部は糞真面目な顔でいった。  かまぼこを口に運びかけた無慚がはっとあざ笑う。 「おちゃっぴいが親に分かるかい。娘御は親の知らぬところで遊ぶもんだぜ」 「はしたないことをいうな」 「ほんとさ。まったく堅物の同心さまはこれだからこまる。よお、うどん食えよ」 「しかし芸妓ならともかくも、ふたりは男慣れしておらぬだろうと男客も言うておった。世のおなごがすべてふしだらと決めつけるはよろしゅうない」  と、これもまた糞真面目な顔でいうものだから、とうとう汁をのんでいた無慚はふき出した。 「さてはおんなの味を知らねえな。まあお前さんみたいなのは、逆におんなに食われちまいそうだから慎重すぎるくらいがええのだろな。それよりはよ食えったら」 「食うなといったり食えといったり、なんや」 「阿呆、うどんだよ。ほっといたら麺が膨れて器からこぼれる」 「……呑気やな。はよせんとまた娘たちが狙われるというに」 「それとうどんがのびきるのはまた別のはなしだ。帳面貸してみなィ、おれはもう食い終わるから」  と、無慚に帳面を取り上げられた。  見ればいうとおり彼の器には汁一滴だって残ってやしない。岡部はしぶしぶうどんの器に手を伸ばす。一方、向かいでつまらなそうに文字を追う無慚の目。ふと、仏頂面の坊主はうわ言のようにつぶやいた。 「『これもちがう』──」 「ああ、空から聞こえた声よ。そう云ったのだと居合わせた男が証言しとる。しわがれた声でそれは不気味だったとも」 「これってなぁ、なんのことかね」 「知るか」  と、岡部は厳つい人相とは対照的に上品な箸運びでうどんをすする。  たしかに麺がもたつく。不愉快な歯ごたえに眉をしかめると、店の若主人はぎろりと岡部をにらみつけた。一番旨い時機で食わなかった貴様がわるい、と言いたげである。  出汁がいい、と聞こえよがしに褒めてみると、若主人は視線をまな板に戻してもくもくと葱を切りはじめた。  喉ごしのわるくなったうどんをむりやり呑み込み、岡部は向かいにすわる無慚へ視線をうつす。 「それで、これからどうする」 「──戎橋のそばに樹があった。そこからあたるかな」 「道頓堀(どとんぼり)川に聞くのはいかんのか」 「流水はそう語らん。なにせ走るのに必死で事を見るひまがねえからな」 「そういうもんか」  岡部はうなずくしかない。  さて、変なことをいっている──とおもわれることだろう。  しかしこれこそ、此度の事件について岡部が無慚をたずねた一番の理由でもある。なぜなら彼は、ふつうならば理解もしがたい、世にも奇妙な力をもっているのである。  まあいい、と岡部は汁を飲み干した。 「とにかく何ひとつ手がかりのないこの現状を打破するための一手がほしい。貴様の力でなんとか、森羅万象に協力を仰いでもらいたい」 「金の分ははたらくよ」  店を出た。  空はすっかり月があがっている。  ────。  無慚いわく。  山川草木がしゃべるという。鳥獣もおなじく。  口もことばも持たぬ彼らが如何に話すというのか、と岡部が以前に詰め寄ったことがある。そのとき無慚は答えをにごし、ただ自身の左耳を指さして、 「こっちの耳で聞く」  とだけいった。  無慚の左耳は十年前に音を閉ざした。それ以来彼は奇妙にも人ではない何ものかの声を聞くようになったという。ふざけた話である。が、これが戯れについた冗談でもないのが、岡部が頭をかかえるところであった。  彼は聞こえるようになってから、岡部の困りごとをことある毎に解決した。  あるときは失せものをさがしあて、あるときは事件の顛末をぴたりと当てた。とくべつなことをするわけではない。ただ、付近の花や鳥、木々をたずね歩くのである。失せもののときはそれをさいごに見た場所に咲く花。事件が起きたときはその近辺に立つ樹木や巣上の鳥──それらがことを、如何にかして無慚におしえているのだという。  いったい彼がどのように聞こえているのかは、いくら聞いても分からない。けっきょく無慚はただ「彼がそう云った」とか「彼女がおしえてくれた」としか云わないからである(あたかも山川草木に雌雄があるかのような言い方をするのも、また不思議である)。    ──三人目の現場に戻ってきた。  戎橋の周囲には炉端に生える数本の木々。 (無慚は此度の事件、山川草木からなにを聞きだすか──)  太く凛々しい眉をひそめ、薄いくちびるをむっと曲げた岡部が僧衣の男をねめつける。  無慚は、手持ちの錫杖と網代笠を木のそばに置き、樹木を前に合掌一礼をする。人間に対してもこれほど神妙にするならばすこしは信頼もされるだろうに、と内心でおもうかたわら、岡部はしばらく時をつぶそうと戎橋を見た。  無慚は古木の根本に腰をおろす。それから頭を幹にもたげ、左耳を寄せた。  これが彼の聞き込み様式なのだそうだ。 「────」 (面妖な)  橋の欄干に手をかけ、ちらとそのようすをうかがう。  もう十数年来の付き合いになるがいまだに見慣れぬ。もっとも彼がこの力に目覚めたのは十年前だというから、それも当然のことだが。    耳をかたむけて四半刻。太陽が西の山間に顔を隠したころ、ようやく彼が立ちあがる。待ちぼうけのため、戎橋の端から端を何往復もしながら、謎の声について思案をしていた岡部はふり返る。  彼はおどろくほど不機嫌な様相であった。 「どうした」 「…………」 「おい無慚」 「──いや、ここじゃろくな話は聞けなかった。ほかのところで聞いてみらぁ」  というや坊主は錫杖と笠を手早く手に取ると、踵を返してさっさと戎橋のむこうへ歩いてゆく。ちょっとまて、という岡部に対して、 「きょうはしまいだ」  とひと言。  つまり「ついてくるな」ということである。  それから無慚はなにを言うこともなく、むっつりとおし黙ったまま橋の向こうに広がるうす闇に消えていった。これだけ待ちぼうけを食らって、文句のひとつも吹っ掛けたかったけれど、岡部の足は動かなかった。  空に闇が迫る。 (『これもちがう』──)  ふと脳裏によぎったことばに身ぶるいし、岡部は足早に西町奉行所へと向かった。
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