第一章

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第一章

 その日も違わず、道頓堀の南側に立ちならぶ芝居小屋は繁盛をきわめていた。  昨年に座頭竹本義太夫を亡くした竹本座。新座頭に政太夫を据えて上演された近松作『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』の初演第三部が、みごとに聴衆のこころをつかんだのが先日のこと。  これまで「ちいさく悪声」とののしられた政太夫の語りが、作品にピタリとはまったためである。無論、長老近松門左衛門が、座本竹田出雲とともに、政太夫の声が映えるものをつくったからにほかならぬ。  活気に満ちた道頓堀。  今日も今日とて、座から帰途につく人びとは、好評嘖嘖(こうひょうさくさく)と賛辞を漏らしゆく。    一方。  人びとの昂ぶりとは対照的に、目前にひろがる道頓堀川はしずかなものである。日が落つるころになってようやく人気のうすれた南岸、戎橋(えびすばし)のたもとに、観劇帰りの男がさしかかった。  いまに一歩、橋に男の足がかからんとしたときである。 「これもちがう」  つと、男の頭上でしわがれた声がした。直後なにかが空から降ってきた。どうと音を立てて地に叩きつけられたそれが何ものか、うす暗い黄昏どきではよく見えぬ。確認すべく、一歩、また一歩と詰める男の顎がふるえ、喉奥からひゅうひゅうと呼気が漏れだした。  紅梅色の織物に足先が触れる。  ──女の死体だ。 「ひ、ひぃやあああ」  男は一寸ほど飛びはねた。  たちまち膝も脹脛(ふくらはぎ)をもふるわせて、男は一目散にその場から駆けだした。  ──。  ────。 「また目ん玉、くり抜かれはってんて」  団子屋である。  女主人が、緋毛氈(ひもうせん)の敷かれた床几(しょうぎ)に二本の串団子がのった皿を置く。注文主は腰かける僧型の男である。ほかに客はない。店前の大路はにぎやかなもので、荷をしょった人足が足早にとおりすぎ、老婆と町娘が連れ立ってむかいの呉服商へはいってゆく。  女主人は男のとなりに腰をおろした。 「しかも両目とも」  主人は名をといった。 「またこれが若い娘ときたもんや。これで三人目よ、もうこおうて外歩かれへんわ。はよ捕まらんもんかねえ」 「的が若ェ娘なら、ばばあが気に病むことじゃねえだろう?」  くっ、と男のくちがゆがむ。  墨染めの法衣をまとい、網代笠を懐にかかえ、つるりとかたちのよい頭を晒しながら、男は僧侶らしからぬ荒々しい所作で串団子にかぶりついた。ふなは不愉快そうに顎をあげる。 「んまァ。久しぶりに帰ってきよった思たら、さらに小憎らしゅうなって」 「久しぶりに帰ェった者に、早々気味のわりい話と説教を食らわすアンタは変わらんな」 「いやな時機にもどったもんや。こない往来で、そない態度やとまた石投げつけられますよ」 「もう慣れた」 「────」  ふなは尻をもぞりと動かした。なにせ居心地がわるい。男が来てから、四方八方で聞こゆる陰口がある。  ──帰ってきよったぞ。  ──死に損ねの気狂いや。  ──おふなはアレに甘い。  など。  男の耳にも届いておる。が、気にする素振りは微塵もない。言うとおり慣れている。  ふなは膝を寄せる。 「それと、ツケ。かれこれ二年(ふたとせ)や、今日という今日はぜんぶ払てもらいますからね」 「やいおふなよ。この師走に、このおれがわざわざこんな胸くそわるい村へ帰ってきて、ここに立ち寄った意味をかんがえな。ツケ払いに来たに決まっとる」 「あんたがかェ。なんぞわるいことで稼いだ金とおまへんやろね」 「人聞きわるいことをいう。仮にも坊主だぜ」 「坊主は坊主でも破戒僧やないの。ったく、その名のとおりの無慚者や、あんたは」  と、言い捨ててふなは店奥へとひっこんだ。  ほどなくもどった彼女の手には急須がある。茶をのもうと湯呑に手をかけて、中身がないことに男も気がついた。気回しのよさは大坂一の年増である。  茶がなみなみ注がれる。ふなはにんまりと口角をゆがめた。 「そいでその無慚(むざん)さまは、いったいどないなことで儲けはったん。参考までに教えてェな」 「団子屋主人の参考にゃなるまいが──しかし簡単なこった。仕事はこれからすんのさ。おれは前払い主義なのでね」 「どないな仕事?」 「あんたが(さき)に言った、目ん玉集めるきちがいをひっ捕らえるしごとだ。ほらこんな風な」  男が串からよもぎ団子をはずして、手のひらに乗せてみせた。よしてよ、とふながいやな顔をするのでさっさと口にほうりこむ。  なんでアンタがそないなこと、とふなは目を丸くする。男はすう、と目を細めた。 「岡部の旦那が──どこで聞きつけたか、おれがあの隠れ家を安宿代わりに寝泊まりしていることを知ってわざわざ訪ねてきたのよ。『力を貸せ』ってな」 「えェ。寝泊まりってアンタ、いつからこっちに」 「はて。ひと月くれェ前か」 「なにしに?」 「なんだよ。身内の命日近くに帰ェってなにがわるい」  なにが命日や、とふなが鼻をならす。 「命日なぞ気にして帰ってきはったことなんかないくせに」 「うるせえな。正直に言やァとなりの村に野暮用があったんで、ついでだよ」 「ほうら見ろ。それに隠れ家ってあのお寺やろ。もうすっかり廃寺ンなってもて、安宿代わりにもならへんやないの」  ふながさらに詰め寄る。  男は、煩わしそうに首を振った。 「おれだって、こんなに長居するつもりはなかった。野暮用を片付けてから二、三日、時を懐かしむ時間がありゃあいいやと──しかし」  しかしだ、と男は念をいれて繰り返す。 「数日前に幽霊のようなツラひっ提げて岡部が来やがった。たかが捕物ひとつに大金積まれたとあっちゃあ、引き受けてやるしかあるめえ。まったくさすがの役人だ、払いがいい」 「結局、金に釣られたわけね──」  と、ふなは苦笑した。  気がつけばずいぶんと日も暮れた。ちらほらと帰途をいそぐ町人が増えている。そのなかで、遠くから小走りに寄りくる娘があった。この団子屋めがけているらしい。  そういうわけだから、と男は立ち上がった。 「おふなはここで吉報でも待っててくんな。そう刻をかけずにぱっと解決しちまうよ──どうもご馳走さまでした」  ふところから出した一分銀を三枚、ふなへ渡す。ツケ代にしてはずいぶん多いが、男はそれを今後の団子分前払いだといった。網代笠を目深にかぶる。軒先に立てかけた錫杖を手に持ち、男はうやうやしく合掌して歩きだした。  駆けくる娘が男の存在に気がついた。ムッと顔をしかめる。 「無慚」ふなが呼んだ。 「あい」 「危険なしごとや。どうせアンタの世話するヒトなんかさがしたっておまへんやろ。いつでもここ、頼ってきんさい」 「言われなくとも」  肩越しに笑みをむけ、僧侶はつつましやかに大路の先へすすむ。  あたりはすっかり黄昏て、もはやその背中も霞む。ふなは床几に置かれた空の皿をとりあげてため息をつく。おふなさん、と肩をたたかれた。白肌でぷっくりと丸みのある頬がかわいらしい米問屋の娘が、眉間にシワを寄せて立っている。 「あらこいとちゃんおいでやす。お店番はええのんか」 「うん。それよりおふなさん──あん人うすきみわるい。あんまり仲良うせん方がええよ。恰好だけはりっぱな雲水さんやけど、ふるまいは瘋癲(ふうてん)やろ。町のひとたちもみんな言うたはる。死に損ねの無慚にゃ関わるなて」 「あっはっは──よういわはる。みんなたいして知らんくせに、知ったように言いふらすんやわ」 「ちがうの?」 「ちがわへん。瘋癲やし、死に損ねもそのとおりや。せやけど、ある意味いちばん繊細で常識人な子ォやで」 「うそォ」娘が手で口を覆う。  ふなはほくそ笑んだ。  娘はといった。  おさないころよりこの団子屋の女主人にはよくしてもらっていたが、いまだにこれだけはうなずきがたい。彼女はいつでもあの生臭坊主の味方をする。時に友人のごとく、時に母親のごとく──。    ※ (いやな顔が在る)  無慚は、道頓堀川沿いにきた。  夕べ事件が発生したという戎橋(えびすばし)の欄干に手をかけ、南岸にむかって橋をわたる。昨日の今日でこの黄昏時に橋をとおる者は多くはおるまい、と踏んで訪ねてきたが、見慣れた顔の男が熱心に橋のたもとをさぐっている。  これはこれは、と無慚はおどけて網代笠をわずかにあげた。 「西の同心、岡部どの」 「無慚。なんやきさま、余所余所しい」 「おれはいま、云わばあんたの岡っ引き。金をもらった以上は立場が下なんでさァ」  岡部曾良(おかべそら)。  大坂西町奉行所の同心で、此度無慚を金でやとった張本人でもある。大坂の町中から忌み嫌われる無慚に、気さくに嫌味をぶつけてくる数少ない男である。  ドがつくほどの糞真面目。いささか融通のきかぬところがあるゆえに、彼も彼とて同心仲間からはけむたがられていると聞く。  岡部は口をへの字に曲げた。 「きさまが引き受けるとはおもわんかったぞ」 「女のころがる場所がわるかった。──おれは芝居を観るのが好きなんだ。このあたりで騒がれちゃあ、一観客としてもめいわくなんだよ」 「ろくすっぽ帰ってもこおへん身ィでなにを言う。それだけとちゃうやろ」 「うん。この国じゃ托鉢ももらえやしねえ、なにごとも金がなくちゃあ」 「素直でよろしい」  岡部はいたって真面目な顔でうなずいた。  この男ともずいぶん長い付き合いになる。ふなとも長いが、こちらはおなじ若者衆時代のなじみなのである。  とはいえ、仲が良いかと問われるとそうでもない。いわゆる腐れ縁というやつか。  岡部は橋の欄干に手をかけ、頭上を見あげた。 「上から声がしたと云う。しかし頭上にゃこのとおり屋根もあらじ」 「茶袋かなにかかな」 「なんやそら」 「土佐でよく出る妖怪よ。おれが方々巡っておったときに耳にした。京じゃあ釣瓶落(つるべお)としなんぞとも云う」  と、無慚は片方の眉をあげた。  岡部という男は、妖怪変化の類をきらう。それを知っていて反応をたのしむのである。案の定、ハッと鼻をならして軽蔑の目をした。 「当て推量でものを申すな。ものの怪なんぞおるか」 「じゃあなんだとおもう」 「それを知るためにきさまを呼んだ」 「魑魅魍魎はきらうわりに、おれはずいぶん信頼されとるようだ」 「したかぁないが──この目で見たからな」  きさまの力、といって岡部はうすら(ぐら)い目を無慚に向けた。
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