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「恋知らず」でいたくて
泣き止んでほしい。涙も流れていないのにそう思う。
エリナは、今、この瞬間、あ、と思った。
――だめだ、これ。
エリナはクーを見上げる。そして、ゆるゆると眉を下げた。
胸のうちに、クーに対する憐憫や労り以外に、もう一つ、色のある心を感じる。
気付いてはいけない心――それを知ってしまえば、きっと何かが劇的に変わってしまう心――。
エリナは、クリスの頬をなぜながら、ぐっと奥歯を噛んだ。
気付きたくない。だって怖いのだ。
エリスティナさえ知らずに終わったひとつの感情を、もし知ってしまえばどうなるだろう。
エリスティナだったころの記憶を思い出す。
カヤはリーハを愛していたし、リーハもカヤを愛していた。
番という関係ありきでも、エリスティナが見てわかるくらい、彼らは愛し合っていた。
たとえ他人を傷つけても相手がいればそれでいいと考える、愚かでおぞましくも、ある意味では純粋だったそれ。
エリナは、それを知りたくなかった。
――クーは、やさしい。
クーを見上げる。
――クーは、私を傷付けようとしない。
きっと、エリナをここに連れてきたことにだって、理由がある。
そう、思った。そう、思えてしまった。
――だって、私、クーのこと、ちょっとだけだけど、知ってる。
そのたった少しの「エリナの中のクー」が、エリナを傷付けようとして、竜王の番として連れて来たわけであるはずがない、と主張する。
エリナはそれに頷いた。
そう思う、そう思いたい。だって、エリナは――……。
エリナはクーの体から自分を引きはがしてかぶりを振った。
クーがエリナを心配して声を上げる。
ほら、クーがそんなだから、エリナはクーを――になってしまう。
カヤのようになりたくない。
誰かを傷付けても、想いを正当化する人間になりたくない。
エリナはこの感情がこわかった。ひとを変えてしまう、この気持ちが怖くてならない。
そう――そう、エリナは、エリスティナのまま――。
「恋知らず」でいたかった。
だからきっと、ここにいたらだめなのだ。
このままここに居れば、エリナはきっと、遠くないうちにクーに恋をしてしまう。
胸が激しく鼓動する。クーに近づくたび、触れたいと思ってしまう。
だから、だめなのだ。
逃げなければ、と思った。どこへなんて決めていない。
――クリス、今、とてもあなたに会いたい。
もうどこにもいない、愛しいだけの雛を思い出す。
あなたが好き、と全身で訴えてくれた、その子供はエリスティナのせいで死んだ。
クリスは死んだ。リーハは死んだ。カヤも死んだ。もうエリナには悪意の矛先も頼るよすがもなにもない。
だから、ずっとひとりでいい。
エリナは今、決意した。逃げてしまおう、と。
エリナは、恋をしたくないから逃げると決めた。
それがどれほど勝手なことか、わかっているつもりだ。
それでも、恋をしてしまえば、きっとエリナはクーも、やさしくしてくれたダーナや、知りあって間もないエルフリートのことも傷つける。
そう思って、エリナはクーの、心配そうに細まった視線から逃げるように顔を伏せた。
その様子を見て、苦しげに顔をゆがめたクーの変化には、気付かなかった。
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