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◇
「……っていうことがあったんだって」
「へえー」
何の変哲もない木曜日の朝、手塚莉央は嬉しそうに、俺、羽佐間瞬の席に肘をつく。
昨日の夜、彼女の姉はどうやら『憂鬱な黒猫』に会えたらしい。
「なんでそんなことを俺に?」
「うーん。何でかなあ。嬉しかったから、誰かに話したい気持ちなんだ」
「ああ、そう。良かったね」
俺はプニプニした柔らかそうな彼女の頬から目を逸らし、ダラダラと伸びてしまいそうになる鼻の下に力を入れていた。
「羽佐間くんって、よく見るとイケメンだよね」
おいおいおいおい。煽てても無駄だって言ってるだろ。
いくらハニートラップされても、出せる情報はもうないぞ!
俺なんか莉央にとっては用なしだってことは分かってるんだからな!
莉央はそんな虚しい心境の俺の前髪に自分の前髪をくっつけて、俺の耳にイヤホンを片方差し込む。イヤホンからは昨日の配信のアーカイブだろうか、聞き慣れた潤の歌声が聴こえる。
相変わらず、悔しいくらいいい声だ。
「やっぱり素敵だよね『憂鬱な黒猫』」
「まあね」
「でも私は、羽佐間くんの調子の外れた歌も好きだったよ」
「調子が外れてて悪かっ……え?」
至近距離で目が合って、俺はまた視線の威力を知る。
周囲の音も物体も時間も吹っ飛ばして、煌めく莉央の瞳。
「私のために一生懸命歌ってくれてありがとう。また聴かせてね」
「おおう、ん」
なんだ今の春めいた感じ。もしかして、俺たちの間で何かが始まった?
いいや、まさかね。
そんな奇跡が起きるわけないか。
『憂鬱な黒猫』は今日も世界中の眠れない誰かに歌を届ける。
でも『憂鬱な黒猫の弟』が歌を届けるのは、この世界で一人だけだ。
調子の外れた歌で良ければ、聴かせよう。
どうか笑わないでね。
……それじゃ、また。
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