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彼女はよく死にたがった。あまりによく「死にたい」と口にするので、俺はずっと、人生に対する愚痴のような彼女の口癖なんだと思っていた。確かにそれは嘘ではなかったが、ただ、俺が思っていたよりもずっと彼女は本気だったのだ。
「よく思うんだ。私、もっと汚れたかった」
ある日彼女がそう言って、敵も味方も、今日も明日も、過去も未来もないと言いたさげにいつもより温度のない目で言った。その冷たい目に渋谷の夜のうるさい街頭が映る。どこか諦めを含みながら言葉を吐き捨てたその口は半開きのままで、その空白すらもまるで台詞のようだった。
梅雨入り直後の雨上がり、妙に纏わりつくような湿度と気温の夜、水溜りには暗闇ではなく色とりどりの夜景の切れ端を映していた。この深夜の時間帯でも人通りの多い渋谷のセンター街の水溜りは人々に踏まれて、波紋を描き、写った夜景を揺らしている。そんな渋谷の端っこの端っこ、錆ついたアパートのこの屋上は彼女が「死にたいモード」の時にいつも黄昏にくる場所だ。それに大体、俺はなぜか付き合わされるのだった。
「愛なんて馬鹿みたい。私には何よりも鋭利で卑怯なものにしか見えないよ。人を殺してもそれが愛だって言うなら、私、そのくらい愛されて見たかった。純白な愛んてものより、泥だらけの愛の方がよっぽど綺麗」
そう言って左手首にある古傷をさすった。自傷癖のある彼女の腕には、彼女の死にたい跡がたくさん残っている。痛々しい新しい傷もあれば、年季の入った傷もある。例えば、頭を撫でるだけでさえ傷をつけてしまいそうな彼女に、俺が与えられるような言葉はどうやら、彼女の言う純白な何かに成り下がってしまいそうでどうしたって何も言えなかった。触れられなかった。
あまりに長い間、俺たちは無言でいた。夜はどんどん更けていく。夜明けまでおそらくあと数分といったところだろう。今日がどんどん西に沈んで、明日が東から顔を出し始めている。それは彼女にとって、どれだけ耐え難いものなのだろうか。ふとそんなことを考えたら、無言で居るのが急に窮屈になった。俺はあくまでも平然を装って、真一文字に結んで渇ききった口をひと舐めしてから言葉を口にした。
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