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「お兄さんはそうやって、時を止めようとして美しいものたちの花首を手折るのね。そんなのごめんだわ。ちゃんと汚い小説を書いてね」
そう言って彼女は自分の首にナイフを当てたが、俺は退けようとした。しかし彼女は俺のナイフを持った手を離そうとしなかった。俺たちは揉み合いになって屋上を転がった。
「どうしてよ! 殺してよ! 私から奪ってよ!」
「だめだ! 刺しちゃいけない!」
「なんでよ……早く殺してよ。もう明日が来てるじゃない!」
「あっ!」
ナイフが肉を切った感覚が伝わってくる。彼女は唸って、蹲っている。それでもなお、血だらけの手で俺にナイフを握らせ、トドメをさせようとする。
「うあああああっ! 早く……早くもう、殺してよ、お兄さん……なんで?」
「お嬢さんの身体に傷をつけるのは、お嬢さんだけでいい。だって、俺は『花首で手折る』んだろう?」
そう言って俺はナイフを捨てて、両手で彼女の首を絞めた。呻き声ひとつ出せない彼女は俺に少し笑って見せた。そして俺の手の中で死んだ。彼女の目から落ちた涙が、頬を伝って首を絞めたままの俺の手に溶けていく。
「そんなに綺麗に泣くなよ。嗤ってくれよ。君があまりに美しく泣くから、俺は美しいものには目がないから。お嬢さんのそれを奪いたかった。だけどそんなものよりももっと、大事なもの、お嬢さん自身を奪わせてくれてありがとう」
本当はそんなことに浸っていた。殺してしまったという感覚がなかったのだ。欲しいものが手に入ったと愉悦に浸っていた。側に膝をついて、血のついた汚い右手で彼女の頬を優しく撫でた。抜け殻のように、暫く、もう二度と三十六度の涙を流さない彼女のことを暫くずっと撫でていた。
しかし、彼女の命を奪ったからとはいえ、欲しかった美しいものは手の内になかった。彼女の時間を止めても、美しいものの時間は止まらずに過ぎ去っていってしまった。彼女のどこを探しても、あの美しさを見つけられなかった。彼女はもう泣かないし、あの冷たい視線を向けてはくれない。殺してしまったら、それは全部、宝物だと思って宝箱に入れたら溶けてしまった雪だるまのようだった。そうやって焦っているうちに、殺してしまったという動揺が現れたのだった。
「残念だったな……俺は彼女を両手で殺したんだ。つまり、お前の持って行った左手はお前が生まれ変わって育ったら、誰かを殺すだろうなあ……ふふふふっ、あははは! あっはははははははは!」
俺の高笑いが渋谷の端っこの端っこから響き渡る。暫く聞こえたそれは、やがて嗚咽に変わり、静かになって渋谷には明日の時間が流れた。
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