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夜が更け、辺りを月明かりだけが灯すような的場はなんとも幻想的だ。普段も張り付けている空気が、もっと澄んで、凛とした場になる。両親が寝静まるのを待ち、道着に着替え、弟からもらった鍵を持って弓道場に行くとまりちゃんがもうそこで待っていた。
「ごめんね、待った?」
「ううん、大丈夫。それより急ごう」
この後矢を放つ弦音なんかを響かせる訳だが、なるべくならば音は最小限に抑えたい。ゆっくり鍵を回し、道場に入って準備をする。
神棚に挨拶をし、まりちゃんが的をつけに行っている間に私は弓張りをし、手に弓懸をつけ、呼吸を整える。数回深い呼吸をした後、まりちゃんが「一矢、射ますか?」と聞いてきたので、頷いた。
足踏み、足を開く。胴造り、弓を左膝に右手を腰に。弓構え、右手を弦に掛け的を見る。打起し、両拳を持ち上げる。引分け、弓を左右均等に分ける。会、発射のタイミングの頃合いを待つ。
カーン!
離れ、矢を放つ。間を切り裂くような弦音が的場に響く。残心、暫く姿勢を保つ。
「んん! 相変わらず惚れ惚れする射法八節だね。綺麗な弓返りだし、見事、いいところに中るね!」
「ありがとう。これだけが取り柄だから」
「もう一矢射る?」
「ううん、今日は……ほら」
「涙うつし、ね。わかったわかった」
私は弓を直すと、まりちゃんに向き直った。まりちゃんはなんだか、これから怖い話だとか、都市伝説だとか、そんな話をするくらいのちょっとしたわくわく感のある顔一切していなかった。深妙な顔、という感じで私の前に座った。
「小春、話してはあげるけど、やろうだなんて思っちゃダメだからね」
「え、やらないよ。こっくりさんとかそういう感じでしょ?」
「まあ……似たようなものなんだけど」
そう言って話し始めた涙うつしの内容は至ってシンプルだった。人形に自分の涙をうつすことで、自分の苦しみや悲しみといったものを人形が持っていってくれると言うものだった。なるほど。新田さんがお孫さんに頼まれて、神社にそのお人形がないか聞いてくるのも納得だ。形代にそっくりだ。
「でもね、ここで使うお人形は、形代みたいなただ人の形をした簡易人形じゃダメなの」
「え、ダメなの? なんで?」
「言ったでしょ。『涙うつし』だって。だから、必ず目のあるお人形じゃなきゃダメなの」
「あ、本当に涙を目に移さなきゃいけないのね」
しかし、これだけ聞けばいい話じゃないか。大祓の形代みたいに、身代わりとなってくれるって意味だろう。なぜそんなにまりちゃんが暗い顔をするのか、私には理解できなかった。
「ねえ、なんでやっちゃダメなの?」
「それはね……人形に感情を吸われて、最後には自殺しちゃうんだって!」
「え? 何、そういうこと?」
「そういうことって、どういうこと?」
「都市伝説にはつきものだよそういう話。こっくりさんとかにもあったよ。あーあ、期待して損しちゃった」
私は弓をまた持ち直し、次の的の前で足踏みをする。胴造り、弓構え、打起し、引分け、会……
「待って、小春! これは本当なの、信じて!」
カーン!
離れ、矢を放つ。弓が返り、間を切り裂くような弦音が的場に響く。残心、暫く姿勢を保つ。
「もう、まりちゃんは心配性だなあ。大丈夫だよ、無闇矢鱈にそんなのには手を出さないって」
「……本当だね、小春」
あははと笑って安心させようとしたのに、まりちゃんは鋭い眼光で私の目を射抜くので、それに少し身震いをした。
まりちゃんが帰り、的場に私だけが残った。しかし放った矢は当たらなくなった。成績は全部的中の皆中はなし。全部中らない残念か、良くて二矢的中の羽分け。全く集中できていない。全国大会出場権をかけた試合を前にして、この成績はまずい。大会は個人戦ではなく団体戦。私は五名中最後の矢を射る落を任されている。勝負の命運を決めるかもしれないのだ。
もう時間はない。
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