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「ねえ『涙うつし』って知ってる?」
「ナミダウツシ?」
大学の食堂で町田薫が思い出したように私に話しかけてきた。彼女は大きな口でカレーライスを食べながら頷いて、まだリスのように膨らんだ頬のまま「ひああい?」と首を傾げた。
「飲み込んでからにしなよ、私はもう今日は授業ないし、薫は次三限ないんだからゆっくり話できるじゃん」
呆れた私はスマホSNSアプリを起動させ、その海に身を泳がせた。ニュースを流し見ていると、最近ハマっているアニメの第二期放送決定の記事が目に入る。ふむふむ、次の夏アニメか。見逃せない。私は続いてスケジュールアプリを開いて、アニメの予定を入れた。重要だ。
一方、薫は涙うつしの話をよほど私に話したいのか、彼女は残りのカレーライスをかき込み、ぐーっと水まで綺麗に飲み干し、もう一度私に同じことを尋ねた。
「で? 知ってる?」
「んー、やっぱり私は聞いたことないかなあ」
「ええー? 嘘でしょー、小春なら知ってると思ったのにー」
「なんでよ……てかなんなのそれ?」
「ほら、小学校の時とかになかった? 七不思議とか、こっくりさんとか。そういう類いのものらしいんだけど、どうやら厄祓い的な意味も含むみたいでさ」
私はスマホをいじる手を止めた。厄祓い。なんだか私は嫌な予感がして、スマホから薫に目線をずらした。ため息を吐いて呆れた顔をする私と、期待に満ちた顔でふんすと鼻息を荒くする薫。
「もしかして……だから私に聞いてきたの?」
「その通り! お家が神社だから、なんかそういうの知らないかなって思って!」
彼女の言う通り、私の実家は神社である。幼い頃から神社が忙しい時は巫女さんとして手伝っていた。継ぐつもりは更々ないが、この家柄、ある程度の知識は育ちながら日本語を覚えることと同義であった。
「悪いけど、知らないよ。災厄の祓い方にもいろんな種類があるけど、そんな名前のやつは聞いたことないかな」
「そっかーじゃあ仕方ないか」
「ていうか、いいの? もうすぐ学祭じゃん。瑞沢君狙ってるんじゃないの?」
「あー! 言わないで! しーっ、しーっ!」
瑞沢千尋。学部違いの同級生らしい。とても人気な男の子らしいが、生憎、私はこの手の話には疎い。恋の駆け引き云々もしたことなんてないし、恋愛の教科書は歳を二十も重ねた今でも少女マンガ止まり。垢抜けレースからは完全に出遅れ、雑誌を買って読んでも目が回る。韓国系とか、流行りのメイクだとか、骨格ウェーブ? ブルベ? イエベ? わからない。カラコン? いや、怖い怖い。
薫はその人気の瑞沢君とサークルで出会ったらしいのだが、本人曰く、イイカンジらしいのだ。一度瑞沢君を話題に引っ張り出すと、それまでの話題を全部消し去って、瑞沢君でテーブルが埋まる。今回はその、ナミダウツシとかいう話題を避けるために、瑞沢君をいいように利用させてもらった。
「どう? 正直あたし、いけると思う?」
「ど、どうって……私瑞沢君のこと知らないし。それに今は大会近いから恋に現を抜かす暇が……その、ないというか」
私は弓道部に所属しているのだが、私を含めた五名の団体戦の方で全国大会出場をかけた試合に出場できるのだ。なので学祭当日も、そんなにあちこち回っている暇がない。大会は七月頭、学祭は七月末なのだ。
「まあそうだよね。神社の方もお祭り準備で忙しそうだし。はあー、涙うつしが厄祓いじゃなくて、縁結びだったらよかったのに」
薫はネイルの綺麗な画像を不貞腐れながら漁っている。チラリと目に入る私には無縁のキラキラした世界。いいなあ、なんて思っているとピコンという通知音と一緒に「英文レポート」というリマインドが表示された。
「えっ、待ってやばい。私四限のレポート書いてないことに気がついた」
「あーあ。じゃあ私は今日は帰るね!」
青い顔をして叫び天を仰ぐ薫に手を振って、私は真っ直ぐ帰宅をした。梅雨に微睡む六月の束の間の晴れ。大学を出るとジリジリと肌がアスファルト共に焼かれ、加えて湿度で蒸されていく。遠くに見える大学の最寄駅が揺らいで見える。「カゲロウ」って、どういう文字を書いたっけ、なんて思いながら天然蒸し焼きの世界を歩いた。
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