身分違いの恋の果て

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身分違いの恋の果て

皐月に入ったばかりの或る日、火盗改青山播磨守主膳の屋敷に奉公していた16歳のお菊は、半年ぶりの休暇を取っていた。 「おっかさんと、お千代、きっと大喜びするわよ」 屋敷から貰った米と野菜の入った大きな籠を、胸の前でしっかり抱えたお菊は、喜び勇んでいた。10年前大工だった父親を事故で亡くしてから、母親と年の離れた妹と3人で暮らして来た。14の年に、これまでの恩返しがしたいと、武家の屋敷に下働きの奉公に上がってからというもの、年に2度の里帰りを楽しみにしている。とはいってもお菊の親と妹の住む長屋は、ゆっくり歩いても四半刻で着いてしまうような近所にあった。6歳の妹のお花などは、お菊が買い物に出る時刻に合わせて町に出るものだから、週に何度も、ふたりは顔を合わせていた。母親のおさんは髪結いをしているので、四方八方を飛び回っていて、家に帰って来るのはいつも夕刻だった。それでも昼時になれば、おさんお気に入りの蓮池を眺めながら弁当を広げたりしている。そこにたまたま時間が合えば、親子3人が並んで食事を取ることもある。 「ただいまあ」 帰省のことは内緒にしていたが、長屋の木戸をくぐった途端に、近所のおばさんたちにつかまってしまい、あれやこれやと噂話を聞かされた。噂話といっても決して人の悪口ではなく、みんなが笑顔になるような、笑い話ばかりだ。ここの長屋で生まれ育って、本当に良かったと実感する瞬間だった。 「もうそろそろ、おさんさんと、お花ちゃんが帰って来るよ」 隣の店の、お亀おばちゃんが、真赤に染まった空を見上げてそういった。花は生まれた時からきょうまでずっと、母親の仕事に同行していた。その最中に抜け出して、お菊に会いに町に出ていたのだ。 「きょうはさ、久しぶりに屋台で天婦羅でもと思ってるのよ」 「あら、いいわね。祭りには未だ早いけど、行っといで行っといで」 長屋の近くに割と広い河原があり、そこに年中、屋台が出ているのだが、夏祭りの日などは、花火があがり、町は活気に満ちた。 外は未だ明るいのに、六畳一間の家の中は薄暗かった。それでも住み慣れた我が家は、その匂いすら懐かしく、お菊は大きく息を吸い込むと、縁側に吊るしてある苔玉をさわりに行った。この苔玉はもう6年も生きている。お花が産まれた祝いにと、父親が買って来てくれたものだ。 「よしよし、苔玉ちゃんも元気で良かった」 綺麗好きの母親の、掃除の行き届いた部屋に、お菊は大の字になって寝転んだ。こんなこと、奉公先では許されない。窮屈な武家屋敷の仕事だが、二十歳になるまで辛抱してお金を貯め、母親と妹に楽な生活をさせてあげるのだと、そう思うと、嫌なことも我慢できる。 「ただいまあ、あれ、お姉ちゃん」 バタバタバタという激しい足音と共に、妹が部屋に上がって来た。お菊は寝転がった格好のまま、目を大きく見開いて頭越しにお花の頬を掌で挟んだ。 「やっぱりお姉ちゃんだあ」 お花は覗き込んだ顔を上げて、玄関に向かって叫んだ。 「おっかさん、お姉ちゃんが帰って来たよー」 「知ってるわよ」 髪結いの道具を土間の棚に置き、おさんは、お帰りと、笑顔を向けた。 「どうしてわかったの?」 起き上がった姉の隣にちょこんと座ったお花は聞いた。 「ここに辿り着くまでの間に、どれだけの人に、お菊が待ってると聞かされたことか。わかるだろう。お前もこの長屋に6年も住んでいるんだから」 「そりゃあ、そうだね」 舌をペロっと出すお花の頭を、お菊がいつまでも撫で、時に鼻と鼻をふっつけて遊んだ。それから3人は銭湯に行くと、そのまま川岸にある屋台まで食事に出掛けた。 「ここに来るのが楽しみだったんだ。もちろん、おっかさんのこしらえてくれる、ご飯やおみおつけも、とーっても美味しいのよ」 海老の天婦羅を頬張るお花の顔を、お菊は目を細めながら見ていた。季節がやさしくなると、屋台で過ごすことが、この一家の楽しみだった。その時は決まって天婦羅の屋台を選ぶ。この屋台の主は昔からの馴染みで、特に父親が生きていた頃は、店の店主と、父親との息の合った掛け合いが愉しかった。 「お菊、なんでも好きなもん食べろ。今夜はおじちゃんの驕りだ」 父親を亡くしてからというもの、屋台を訪れるたびに店主はそういった。そして彼女たちの食べる姿を見ながら、そっと目頭を拭いていたりするのだ。とても情の熱い人だった。 「おじちゃん、そんなことばかりいって商売は商売だよ」 「生意気になったもんだねお菊も」 店主はそういうと、自分専用の湯飲み茶わんに日本酒を注いで、美味しいそうに飲んだ。屋台の裏手の川の水面が夕日にきらきら光り、とても綺麗だと思いながら、お菊は魚の天婦羅を食べていた。 「ずいぶんと日が伸びたね」 おさんがポツリという。木造の屋台は枠組みだけで作られており、店主の後ろに広がる景色が美しい。 「そうね、これからの季節が、いちばん好きよ、あたし」 真冬の水仕事の厳しさを思えば、灼熱の太陽なんて、へっちゃらだった。暑かったら井戸の水で顔を洗えばいい。でも霜焼けやあかぎれの痛みは、耐えがたく、せんべい布団で身を縮めて眠るのに慣れなんてない。 「お姉ちゃん冬は嫌い?」 お花が聞いた。口の横についた天婦羅を、舌を使って取ろうとしている。 「冬はいやだな。手足は痛くなるし、寒いし」 「お菊、ごめんよ。つらい思いをしているんだろう。帰っておいでよ。おっかさんは売れっ子の髪結い師なんだからさ、あんたも、お花も弟子にしてやるよ。そうして三人で暮らしていけばいいじゃないか」 離れて暮らす子供の「寒い」という言葉が母親の胸を打ったのだろう。いつになく気弱に見える。お菊はおさんの手を取った。 「わかってる。でもねあたし不器用だから髪結いはむりなんだよ」 「そうかえ」 お菊の指先を眺めながら、おさんは首をひねった。お菊の手先が不器用なのは、周知の事実であったし、何より、お菊は髪結いに興味を持てなかった。人の頭をさわるのが苦手なのである。 「でもさ、二十歳になったら帰って来るよ。そう約束したでしょう」 「そうね、それまであと四年。首を長くして待ってるよ」 「おいおい」 店主が口を挟む。 「二十歳になった時には、お婿さんがいるだろうよ」 「うーん」 お菊が急にうつむくので、三人は顔を見合わせた。 「おい、お菊、お前まさか、好きな人でもいるのか」 「いやっやだね。そんな人、いる訳ないじゃないの」 お菊は立ち上がり、河原の土手を降りて、水際にしゃがみ込んだ。 「好きな人か…」 水を手で救おうとしたら、下駄が小石の間に落ちて、足が濡れたけど気にしない。お菊の後を追うようにして、お花が掛けて来る。 「慎一郎様」 奉公先の三男坊の慎一郎に、お菊は恋をしていた。あまり話したこともないが、時に屋敷内ですれ違うことがあれば、いつでも笑顔で会釈してくれる。町で買って来た団子や饅頭を、女中たちの土産にしてくれたりもするのだ。やさしさに飢えていた訳ではないが、慎一郎と同じ屋根の下で働いていると思うだけで、勇気が湧いて来た。ただそれだけで良かったのに。 翌日の昼過ぎ、お菊は屋敷に帰って行った。いいというのに、おさんと、お花は屋敷の手前まで見送るといってきかなかった。昨夜は夜更けまで、三人は布団の中でおしゃべりをしていた。おさんは父親とののろけ話、お花は最近、良く見かける野良犬の話し、お菊は同僚の、お朋との笑い話しをした。そのうちお花が寝てしまい、母親とお菊だけで、父親の思い出話をした。お花には、父親の記憶がないので、細かい思い出話は避けている。せめて両親の馴れ初めくらいだ。それならお菊も知らないので、お花を置いてけぼりにしないですむ。 「おっかさん、働きすぎに注意だよ」 お菊はそういって、おさんの襟のよれを直してやった。 「お花も、おっかさんを助けてやってね。おっかさんは若く見えても、もう年寄りなんだから」 「あら、失礼だね。あたしはこれからが花なんだよ」 おさんは、細くくびれた腰をくねくねと曲げて見せた。 「もう、おっかさんたら恥ずかしい」 「あんたは少し、体裁を気にしすぎだね」 そう話していたら、門から慎一郎が出て来た。 「あっ!」 お菊の表情が一瞬で変わる。おさんはその表情を見逃さなかった。お花の手を取り、一歩下がって、様子を見守った。 「お菊ちゃんじゃないか、どうしたんだい?」 お菊に気づいた慎一郎が掛けて来た。そして、おさんとお花を見つけ、会釈した。おせんと、お花も丁寧に頭を下げた。 「お母上と妹さん?」 おさんは、慌てた風に手をふった。 「いえいえ、お母上など、立派なもんじゃありません。はい」 「おっかさん」 母親に向いたお菊は、うなずき、慎一郎を見た。 「昨日、休暇をいただいておりましたので」 「そうか、それは良かった。ゆっくり休めたのか?」 「はい、馴染みの屋台で天婦羅などをいただきました」 「天婦羅かあ、いいなあ。今度、私にも紹介してくれ」 「そ、そんな」 肩をすぼめたお菊は、そのまま後ろずさった。 「もう、お願いします。お菊にご案内させますので、是非、是非」 「おっかさん」 お菊の真赤な顔を見て、おさんは笑い出した。慎一郎は、不思議そうな顔でその様子を見ていた。 「すみません、若様」 「いや、いいよ。楽しそうでとても良い。羨ましいくらいだ」 慎一郎はお菊の顔を覗き見た。 「そうと決まったら早い方がいい。明日の夕方なんだが、私がいつもの風呂屋へ寄った帰りに、ここで待ち合わせよう。天婦羅を食べに連れて行ってくれないか。なーに、お前のことは私が母上に、ちゃんと用事をつけて説明しておくから」 「いいじゃない、いいじゃないお菊」 おさんがお菊の腕を叩くと、お菊は叩かれた腕を抑えながら慎一郎に向いてうなずいた。 「お菊ちゃん、なんだかとってもご機嫌ね」 親友のお朋と、洗濯物を干していた。朝の日差しをさんさんと浴びながら、敷布を干すのは、とても気持ちがいい。 「そうかなあ、お天気だしね」 本当は、慎一郎との待ち合わせのことを考えていた。昨晩もそのことを考えると、良く眠れなかった。2日続けて寝不足なので、目の下に小さな隈ができていた。 「お里帰りが嬉しかったんだね」 「わたしはお朋ちゃんと違って実家が近いから、なんだかごめんね」 お朋とお菊は同じ年で、同じ時期に、奉公に来ていた。しかし江戸っ子のお菊と違い、お朋は下総国から来ている。年に二度の休みも、往復するだけで終わってしまうので、一度に四日、まとめて休みを貰っている。 「うーん、いつも謝る。いいんだよ、うちが遠いだけなんだし、お菊ちゃんゆっくりして来たらいいのに、いつも遅く出て、早く帰ってくるんだもん。休みはもったいないよ」 「いいのよ、あたしはいつでも親兄弟に会える距離に住んでいるんだから」 洗濯籠を小脇に抱え、お菊は勝手場の方に小走りで行った。 夕方になり、日課である銭湯に行った慎一郎の帰りを屋敷の前の路地で待っていた。昨年母親から貰った、花簪を差し、薄っすら紅も引いてみた。鏡台の鏡を覗き込むと、まんざらではないと自分を誉めた。 「お菊ちゃん」 首の後ろのおくれ毛を撫でていたら、真後ろから声を掛けられた。お菊は胸がかっと熱くなった。 「待たせたね。さあ行こうか」 「はい」 小さく返事をするお菊の背にふれぬように、軽く手を回し、慎一郎は歩き出した。そのふたりの様子を、じっと見ていた人物がいる。お朋である。 「どうして、どうしてお菊ちゃんが若様と一緒なのよ」 着物の袂を噛み締めて、お菊の背中を睨んでいた。 「いやあ、お菊がこんな立派な人を連れて来るなんてね」 馴染みの天婦羅屋台の店主は、終止嬉しそうだった。 「おじさん勘違いしないで、若様にご迷惑じゃない」 「迷惑なんかじゃないよお菊ちゃん。お菊ちゃんのような働き者で、気立ての良い女の人は、なかなかいないからね」 「そんな…」 お菊はうつむいたが、最初に比べ、大分慣れて来たようで、慎一郎と目を合わせて話しができる。 「身分が違いますから」 「身分なんて、そんなものを気にしている人間ならば、近所の風呂屋や、居酒屋に入り浸ったりしないよ。人はみんな一緒じゃないか」 「はい」 お菊は微笑み、うなずいた。三男坊の慎一郎は。何れ家を出なければならない身分である。大店の商家の娘との縁談話が浮上している。その日が来たら、つらいだろうが、きょうこうして慎一郎と並んで食事ができることで、それでお菊は十分しあわせだった。 ー多くを望んではいけないー 母親はそうやって、娘たちを育てた。 帰りは夜になってしまった。店主を挟んで会話が盛り上がり、三人で慎一郎の行きつけの居酒屋に寄っていたからだ。 「きょうは、あんなにご馳走になってしまって」 店主を居酒屋に残し、ふたりは家路についていた。 「いや、返って引っ張りまわして悪かったね」 「いいえ、お佑紀さんにも、沙也ちゃんにも会えましたし」 お佑紀というのは、年の若い居酒屋の女将で、沙也はその店の飼い猫のである。 「気に入ってくれたのなら良かった」 「とっても気に入りましたわ。機会があればまた行きたいくらいで」 そういうお菊の目は沈んで見えた。今夜の様なことが再び起きることはない。慎一郎との最初で最後の逢瀬であり、一生の想い出である。 「ではあたし、裏口から入りますので」 「うん、母上には、私の付き添いだと伝えてある。遅くなることも承知ゆえ、何も心配することはない」 「ありがとうございます」 深く頭を下げたお菊は、走り去る様にして行ってしまった。夏の夜霧が深く、お菊の姿はすぐに見えなくなってしまう。 「あれっ、扇、忘れたかな?」 慎一郎は、袂や胸元を探って扇を探したが見当たらず、居酒屋に置き忘れたのだと思い出し、引き返した。 「ただいま戻りました」 勝手口の扉をそっと閉め、前を向くと、お菊は仰天した。目の前に、慎一郎の継母である紫帆(しほ)が立っていたからだ。小柄のお菊の身体をすっぽり隠してしまう程、紫帆は大柄で、細く釣り上がった目が、下駄のような顔に貼り突いていた。低く小さな鼻、上唇が殆どなく、しゃくれた顎。 「何処に行っておった」 歌でも歌っているのかと思うような声質。 「あの、慎一郎様のお供で、剣術道場の試合を見に」 「聞いておる。お前の様なものを連れて行き、道場の洗濯物を頼むというから許可したのだが、先程、剣術師範の先生方が参られてな、いつもの御礼にと菓子折りを持って。不思議に思い、試合のことを聞いたら、試合等はなく、そればかりか道場は休みだというではないか。一体、いままで何処に行っていた」 「あっ、あの…」 剣術道場のことは、慎一郎が考えた嘘であった。それを知っていて、天婦羅屋台や居酒屋に遊びに行っていたことを、お菊は後悔した。 「答えられぬのか」 紫帆が手を伸ばすと、竹刀を抱えたお朋が駆け寄って来た。 「お朋ちゃん、どうしたの?」 竹刀を紫帆に渡したお朋は、少し下がって、お菊を見据えた。 「初心な慎一郎殿を騙し、何処に行っていたと聞いておるのじゃ」 いい終わるのと同時に、竹刀を両手で持った紫帆が、お菊の腰を思いっきり叩いた。お菊はその場に叩きつけられた。 「何をなさいます」 両手を地べたに着いて、顔を上げたお菊は紫帆を睨み上げた。 「なんじゃその目は。使用人の分際で、主に逆らうというのか」 今度、紫帆は、お菊の肩に竹刀を振り落とした。鋭い痛みが走ったが体勢と戻そうとした時、頭に激痛が。頭を殴られたのだ。血が滴り落ちても、紫帆は殴るのをやめなかった。何度も何度もお菊の身体を殴り続けた。恐ろしくなったお朋はその場にしゃがみ込み、見ない様に顔を隠した。 「おっおやめ下さい、なぜこの様な仕打ちをなさいます」 お菊がいうと、紫帆は尚更力を込めた。 「黙れ!盗人」 「盗人?」 「そうじゃ盗人じゃ」 一旦、紫帆は竹刀を置き、お菊の顔の前にだらしなくしゃがんだ。 「わたくしの大切にしていた皿を盗んだらしいな」 「さっ皿……」 「お朋がそう申しておったわ」 切れた唇の端を撫でてから、お菊は紫帆と、お朋を見た。 「輿入れの際に、実家の母が持たせてくれた大切な皿が、一枚足りないのに気付いた。十枚揃っておったのに、九枚しかない」 「そんな、そのお皿は……」 「白を切るつもりかお前。昨日、納戸の掃除をしておったであろう」 お菊は黙ってうなずいた。 「前々からわたくしの輿入れ道具に興味のあったお前は、皿を取り出し、一枚、盗んだであろう。お朋が白状したわ」 「えっ」 お菊が止めるのを聞かず、お朋は紫帆の長持ちを開け、皿を取り出した。その際、手が滑って一枚割ってしまった。隠しておけばわからないと、お朋はそのまま逃げたのだ。 「お朋ちゃん、なんで」 お菊はお朋を見たが、お朋は掌で顔を隠したままである。お菊の意識は朦朧としていたが、悲しみで、涙は流れ出ていた。 「主の皿は盗むわ、慎一郎殿はそそのかすわ、お前の様な性悪女は見たことない。慎一郎殿は武家、お前はただの飯炊き女だよ。この身分知らず」 「身分など関係ないと、慎一郎様が」 「慎一郎様?お前、いつから若様を慎一郎などと呼び捨てにするようになったのじゃ。許せん、許せん。わたくしの慎一郎殿を盗むのは許さん」 そういうと紫帆は立ち上がり、お菊の頭目掛けて竹刀を振り落とした。 「死んだ?」 紫帆はお菊の肩を蹴り上げ、仰向けにさせた。口からも、頭からも血を流したお菊は、目をかっと開けた状態で息絶えて見えた。 「お朋、おいで」 「はっはい」 「早く」 怒鳴られ、お朋は這うようにして紫帆の足元に、ひざまついた。 「さあ、この女の亡骸を始末するよ」 「始末?」 顔を上げたお朋は、恐怖で顔が歪んでいた。 「ぶさいくだね。その顔、嫌いじゃないけどね。わたくし、お前の様なぶさいくな顔、嫌いじゃないんだよ。嫌いなのはね、こういう小さく、頼りがいのない女だよ、このお菊のようにね」 紫帆はお菊の足首を持ち上げた。そして顎でお朋に指図をすると、お朋は腕を抱えた。 「あそこの井戸に投げ捨てるよ」 お菊の身体を軽々と持ち上げる紫帆に比べ、お朋は恐怖で震えている。うまくお菊を持てず、何度も落としてしまい。遂にはずるずると引きずられてゆく。 「だらしないねえお前は」 井戸の手前に着くと、紫帆はお菊の腕の間を抱えた。 「やめて…」 死んでいると思ったお菊がしゃべった。引きずられていたので、髪の毛はバラバラにほどけ、唯一、母から貰った花簪だけが、頭の天辺に残っていた。 「お願い、許して」 「ええええええい、気持ち悪い。この女、しぶとく生きておったわ」 そういうと、紫帆はお菊の頭から簪を抜いた。 「慎一郎殿に貰ったのか、お前の様な泥臭い女には似合わん」 お菊は首をふり、井戸に逆さに向いていた身体を前に翻した。腰のところで、かろうじて井戸に落ちないでいる。腹筋を使い、紫帆の襟を掴んだ。 「それは、返して」 「なにを、この女、死ね」 お菊の手首を捻り上げ、紫帆は遂に、お菊を井戸に投げ捨ててしまった。しかしその時、最後の力をい振り絞り、お菊は紫帆の襟を再び掴んだので、紫帆は井戸の縁におでこを打った。額が割れ、血が飛び散る。お朋の顔にも紫帆の血がたくさんついた。 それからひと月後のこと、いつもなら買い物で、日常的に町に出掛ける筈のお菊と会うことができないのを心配した、おさんとお花は、屋敷の近くの路地で、慎一郎が出て来るのを待っていた。天婦羅屋台の店主から、ふたりが店にやってきたこと。二次会で居酒屋に行き、帰りは慎一郎とふたりっきりだったことを聞いている。慎一郎なら、お菊のことを何か知っているのではないかと思ったのだ。しかし慎一郎より先に、お朋が姿を表した。互いに面識はなかったが、ふたりを見たお朋の態度は急変した。 「あの、少し聞きたいことがあるのですが」 「なんでしょう」 お朋はふたりに背中を向けていた。 「お屋敷に、お菊という名の娘が奉公していると思うのですが、元気にしているのかと。いつもなら日に一度は買い物に出掛ける筈なのに、ここんとこ、全然目にしないんでね、何かあったのかと心配になって」 「さあ、お菊さんなら、屋敷で他の仕事をしているよ」 「それは本当ですか?」 お朋の前に回ったおさんは目を見張った。お朋の頭に、娘にあげた花簪が差してあったからだ。 「それは」 「ああ、これ、これは」 慌てて簪を抜いたお朋は、それを、地べたに投げつけた。 「何をするんだい」 「そんなもの、要らないっていうのに、お菊さんが無理やりくれたんだよ」 そう吐き捨て、お朋は去って行った。 その日の夜。 「奥方様、あのふたり、お菊の親と妹は何か感じてますよ。早く始末しないと、今度はあたしたちが」 襖越しに廊下に座り、中にいる紫帆に、お朋は話しかけた。 「何をそんなに怖がる必要がある。あの親子ならすぐに殺すから案ずるな」 紫帆はこの頃、屋敷の中でも頭巾を被っていた。井戸の縁に打った額の傷が治らず、膿んでいたからだ。 「お菊は暇越しをしたと、女中頭には説明している。だが親が動き出したら厄介だものね。手っ取り早くしないとね」 「あの井戸も、中を見られたりしないでしょうか」 「その心配はない」 「どうしてそう言い切れるのですか」 「あの井戸はヒ素で汚染されておる」 「ひっヒ素?」 「そう。昔、あの井戸にヒ素を撒いたのだ。下僕が、人を殺めるために仕入れたヒ素をわたしくが見つけ、危ないので井戸に流した。殿様にはそう話した」 「そう、話したと……」 「そのからあの井戸は使用しておらぬ。殿様も承知じゃ」 「で、ございましたか」 「ふはははははははは」 紫帆は夜中だというのに笑い出した。 「しかも、あの井戸にはもうひとり、女が投げ捨てられておる」 「えっ」 「聞きたいか、それは慎一郎殿の母君じゃ。先妻じゃ」 「まさか」 「まさかではないお朋。かれこれ二十年前の話しじゃ。その頃、この城に奉公に来ていたわたくしは、どうしてもお殿様を奪いたかった。ひとめ見た時からお殿様に心を奪われていたのだ。奥方様はそもそも病身で、子供達の世話さえもできないでいた。必要ないだろう、そんな女。ゆえにヒ素を飲ませて殺し、井戸に投げ捨てたのだ。わたくしはヒ素を用意した下僕も殺し、そ奴も井戸へ。そうじゃ井戸には三人もおったわ。あはっはははは」 「それで先妻の奥方様は行方知れずということに」 「そうじゃ、しかしそれを納得させるまでに十五年も掛かったわ」 そこまで話したところで、廊下の奥で音がした。慌てた紫帆は立って襖を開けた。 「だれじゃ」 大声を出し、左右を見てから、お朋に目を落とした。お朋は頭を下げている。 「だれかおったか?」 「いいえ」 「いまの話し、だれかに聞かれてはおらぬな」 「いいえ」 「いいえ、いいえ、しか言えぬのか」 「いいえ」 そういい、お朋が顔を上げると、紫帆はその場に尻餅をついた。 「おっお前、お前、生きておったのか」 そこにいたのは紛れもなく、お菊であった。 「いいえ、奥方様。あたしは貴方に殺されました」 「しかし、ここにおるではないか」 紫帆は尻餅をついたまま、わなわなと後ろず去っている。 「しかし、全てを聞けて良かった」 「死人の分際でなにを申す、お前に何ができるというのだ」 「それはどうかな」 「慎一郎様」 「しっ慎一郎?」 お菊がすっと立ち上がると、廊下の奥から慎一郎が姿を表した。下唇を噛み、怒りを必死で堪えている。 「薄々、感じておったが、貴様が母上を殺したんだな」 「まっまさか、慎一郎殿」 紫帆は膝をついて、慎一郎の元へ行くと、彼の袴を両手で掴んでニコリと微笑んだ。 「離せ」 「何を仰せになります。わたくしは貴方様の母ではありませぬか」 「ええい、薄汚い。離せと申しておろう」 肩を蹴られた紫帆は、後ろに一回転した。 「なんと情けないおなご、反吐が出るわ。父上に全てを話し、処分を下すゆえ、待っておれ」 「そんなこと、誰が信じるというのだ。殿様はわたくしの言いなりじゃ」 慎一郎が立ち去るのを見届けてから、紫帆は振り返りお菊を探した。 「どこに、あの女、どこに逃げたのだ」 足元をふらつかせながら立ち上がり、紫帆はお菊を探して、屋敷内を彷徨った。 「ここよ」 「お菊」 紫帆が声をする方を見ると、あの時の井戸が目に入った。 「なんじゃお菊、いい度胸じゃ、二度も三度も、井戸に捨ててやる」 恐ろしい形相で、紫帆は井戸に駆け寄ろうとしたが、途中で何かにつまづいて転んでしまった。 「なっ、なんだ、こんなところに」 見ると、お朋が横たわっている。 「おい、お朋」 紫帆はお朋の腰の辺りを蹴った。「う、う、うー」お朋がうめき声をあげ、紫帆を見た。 「奥方様、お助け下さい」 「うるさい!そんなところで寝るな。お菊はどこじゃ、お菊は」 お朋は井戸の方を見て、指をさした。 「一枚」 「なっ、何じゃ、お前、なんと申した?」 声は井戸の方からしたが、紫帆はお朋を見ている。お朋は横たわったままで首を振った。 「二枚」 「また声がした。お朋」 「違います。あたしは何も」 「三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚」 枚数を数えるたびに、皿が割れる音がした。紫帆は乱れた襟の首元を掻きながら、首を左右に折った。 「一枚、足りない」 「やっ、やはりお前か」 横たわっていたお朋が、正座をしてうつむいていた。 「お菊、未練たらしいおなごじゃ」 顔を上げたお菊は、あの日の様に口から血を流し、額や頬を腫らしていた。そしてお菊は立ち上がり、紫帆の元へじりじりと近づいて行った。 「わたくしを、井戸に落として殺そうという算段か」 お菊は首を振った。 「慎一郎様のお母上の亡骸と、其方を一緒にはできませぬ」 「うふふふっふ」 「何が可笑しい?」 「苦しいのじゃ、首が苦しいのじゃ」 不気味に笑う紫帆が、次の瞬間、首を抑え、舌を大きく出して苦しみ始めた。 「死んでも、其方の罪は消えぬが、これ以上、生かせておけば、また罪なき者が犠牲になる」 苦しみに耐えきれず、地べたを這って藻掻く紫帆は、暫くしてこと切れた。紫帆の死を見届けたお菊は、座敷の柱の陰で震えているお朋を見た。 「ゆっ許して下さい、あたし、悔しくて、慎一郎様と、お菊ちゃんが仲良くしているのが悔しくて、皿を割ったのを、お菊ちゃんのせいにして」 「いいのよ、お朋ちゃん。あたし怨んでなんかないわ」 恐る恐る、お朋はお菊を見た。すると、お菊は生きていた時の様に、髪をきちんと結い、顔に傷もなかった。 「お菊ちゃん、死んでなかったんだね。良かった」 お菊は首を振った。 「悔しいけれど、あたしは死んだんだよ。でも、どうしても紫帆が許せなくて、こうやって、おばけになって出て来たんだよ」 お菊は、月を見上げ、この屋敷に来る前のことを思い出していた。 ー慎一郎、行きつけの居酒屋ー 「そろそろ帰ろう、勘定をお願いするよ」 その夜、客は慎一郎しかいなかった。店主のお佑紀は「うん」とうなずき。外へ出ると暖簾を下げ、軒先の提灯の火を吹き消した。店の長机に座る慎一郎は、その様子を振り返ってみていた。 「さ、お入り」 「お客かい?」 「そうだよ、大切なお客さんさ」 入って来たのはお菊であった。死んだ時のぼろぼろな身なりで。 「なんと」 そんな姿を慎一郎に見られたくないお菊は、慎一郎の視線から逃げる様にして背中を向けた。 「どうしたというのだ、お菊ちゃん」 慎一郎が音を立てて立ち上がると、厨房の定位置に寝ていた沙也が鳴いた。 「お菊ちゃんはね、もう生きてないんだ」 「い、意味がわからない」 泣いているお菊を抱き寄せたお佑紀は、その背中を撫でていた。 「だれに、やられた」 お佑紀には、不思議な力がある。その事実を知っていた慎一郎は、うなだれたように椅子に座った。 「事の詳細はわかった」 お菊から、一部始終を聞き出した慎一郎とお佑紀は、顔を見合わせた。 「お菊ちゃん、弔い合戦をすると、もう成仏はできないんだよ。それでもいいの。大丈夫なの?」 死んだお菊は、人の目に触れる事も、触る事も、言葉を発する事もできない。 しかし、不思議な力を有するお佑紀を通すことで、その力を得ることが出来る。だが、それには危険を伴う。もう二度と、成仏することが叶わない。 「それでもいいんです。あたし、このままでは絶対に死にきれないから」 「そういうことなら、力を貸すわよ」 こうして、お菊は紫帆を成敗することが出来た。全てを終えたお菊は、お佑紀と慎一郎の待つ、居酒屋へ行った。途中、沙也が迎えに来ていたので、抱き上げた。 「朝がくる」 見上げた空の雲の間に間に、朝の光が輝いていた。涙が零れたのは、この世に、人として生きることの出来ない自分の境遇の悲しさではない。太陽が、どんなものにも平等に光を与えてくれることへの感謝の想いからであった。
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