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第八話 遠い時代へ
「あたしは北郷穂香。氷来高校の二年。お姉さんは?」
最初に「出現」した店の近くにある児童公園のベンチで、女の子は自己紹介を始めた。
「私は星冲聖園。年は二十六、失……フリーターよ」
「フリー……なに?」
私ははっとした。フリーターが通じない。仕方なく私は「アルバイトよ。漫画家のアシスタントをしたり喫茶店で働いたり……まあ無職みたいな物ね」
「無職かあ。でも漫画家ってすごいね。どんなもの書いてるの?」
「あの、ええと……しょ、少年漫画かな」
「少年漫画か。兄貴の漫画ならちょっと読んだことあるな。ドカベンとかブラック・ジャックとか。……でも漫画家って普通、東京に住んでるんじゃないの?」
「そ、そうね。でもうちの先生はこっちで描いて郵送で原稿を送ってるの」
「へえ、そういう漫画家さんもいるんだあ」
穂香と冷や冷やするやり取りを交わしながら私は内心、焦っていた。何しろ手元にスマホがないのだ。私の手元にないという事はたぶん、由仁の手元にもないだろう。仮にあったとしても79年に中継局があるとは思えない。電波が飛ばなければ持っていても意味がないのだ。
「……で?その服はどこで買ったの?デパート?」
「これは、その……親せきから貰ったものなの。ごめんなさい、どこで買ったかはわからないわ。でもニットとデニムパンツの地味コーデなんだけど……」
「デニムパンツ?コーデ?……なんかお姉さん、よくわかんないファンション用語を一杯知ってるんだね。もしかしてお洋服屋さんかファッション業界で働いてたの?
私はまたやってしまった、と内心で頭を抱えた。私たちにとっての「当たり前」はいったい、いつから始まったのだろう。
「それでね、北郷さん。私、今どうしても会わなくちゃいけない人がいるの。ファッションの話はまた今度にして貰えないかな」
私が窮状を訴えると、意外にも穂香は興味深げに身を乗り出してきた。
「あたしも手伝うよ。いくつくらいの人?」
「四十代くらいの、男の人なんだけど……」
「四十代の男性?……叔父さん?それとも学校の先生か何か?」
男性と聞いた途端、穂香の目が好奇心に見開かれた。
「ええとそういうわけじゃなくて……アルバイト先の店長さん……かな」
「ふうん、そうなんだ。なんか火遊びとか危ない関係なのかなって一瞬、思っちゃった」
「火遊び?……あ、不倫のことか。違う違う。それにその人たぶん、一人者だし」
「えっ、四十代で独身?危ないんじゃない、その人?」
私は喋れば喋るほど泥沼にはまってゆく自分を意識していた。単に少数派というだけでなく、この時代では中年の独身者は危険人物扱いなのか。
「……どこにいるか知りたいんだったら、その人のやってるお店に行ってみたら?」
私ははっとした。そうだ、まだ『間違った昭和』ではないかもしれないが、要するに実家に行ってみればいいのだ。いるかどうかはわからないが。
「お店には……いないと思うわ。今日は休みなの」
「あ、そうなんだ。それは困ったわね。……ううん」
「ただ、その人の家は知ってるから、これから行ってみるわ」
「えっ、家に?」
私が思いついた行き先を口にすると、穂香は信じられないといった顔つきになった。
「家まで行くのって、まずくない?……あ、でも家庭は持ってないのか。実家に行くの?」
「うん。……大丈夫、一人で行くわ」
「そう?何かわかったら教えてね。……あ、これ私の家の電話番号。たぶん親が出ると思うけど気にしないで」
穂香から市外局番で始まる番号のメモを渡された私は、「ありがとう」と言って身を翻した。そうか、連絡を取るにはお家に電話する以外、方法が無いんだ。
私は近くのバス停に辿り着くと息を整え、腕時計に目を遣った。
―ーあと一時間四十分、何をどうすればいいの?
私はバスの路線を確かめると、四十数年後と変わらない青く澄んだ空を見上げた。
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