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「どうされましたか?  お顔の色が冴えない様ですが・・・・・・」 静寂の続く中 重苦しい空気を切る様に声を発したのは櫻井医師だった。 「いえ、大丈夫です」 僕はそう答えるので精一杯だった。 心の中を見透かされない様に・・・・・。 僕の目の前にいるあの方に 僕が僕だと見破られない様に・・・・・。 ―徒花― 「先程、こちらへ伺う前に伯爵様にもお話させて頂いたのですが  この春より半年間、医局向上の為  独逸に行く様にと上から辞令が下りました。  私が信頼しているこの高峰医師に私の留守中は  夫人の主治医をお願いする事にしました。  彼は外科医です・・・が・・・・・・」 「嫌・・で・・・す・・・・・」 「夫人?」 「嫌です・・・・・!」 普段、大きな声など出す事の無い僕に驚いたのか 隣室で診察が終わるまで待っている筈の伯爵が 扉を開けて入って来た。 「一体どうしたと言うのだ?!」 「いえ、先程お話させて頂いた事を夫人にも・・・・・」 「ですから・・・嫌だと申しております」 「どうしたのだ、雅?  その様に大きな声をだすとは・・・  何時ものそなたらしくないではないか?」 伯爵の口から『雅』という僕の名前が発せられた瞬間 体内を走る熱情とも呼ばれる紅い血液が 一瞬にして蒼く凍りつくのを僕は感じた。 「奥様!  お顔の色が・・・・  真っ青になられておいでです!!  旦那様、このままでは奥様が・・・・・・」 「大丈夫か?雅!!」 「奥様!!」 「大丈夫です・・・」 倒れそうになる僕を支えようと 差し伸べられた伯爵の手を振り払い 僕は乳母の腕に身を預けた。 僕は伯爵の戸惑う瞳の中に鋭く光る何かを感じ取る。 それが何を意味するのかを 伯爵の視線が全て物語っていたが 僕はあの方の前で 伯爵に抱き抱えられる姿等 決して見せたくは無かったのだ。 「櫻井くん、とにかく奥を診てやってくれないか?」 「はい。  では夫人、ベットへ横に・・・・・」 「嫌です・・・・・・」 「何を申しておるのだ?」 「私は診て頂きとうありません!」 「雅!」 「私はその高峰医師だけには診て頂きとうないのです!」 「雅!!」 「夫人、この高峰医師には夫人の事を全て話してあります。  ですから、ご心配されなくても大丈夫なのですよ」 「私の事を・・・・・・私のこの身の事を・・・・・・・」 「はい。  ですから・・・・・」 「ならば尚更、診て頂きとうはございません」 「夫人?」 「・・・診て・・・・頂きとう・・・は・・・・ない・・のです・・・・・」 瞳から流れ落ちる雫が僕の蒼ざめた頬を濡らす。 零れ落ちた涙は 何もかもを知られたという悲しみだったのか・・・・・ それとも 僕の溢れんばかりのあの方への想いだったのか・・・・・ 温かい涙は僕の頬だけを紅く染めた。 その頬があの方への僕の想いを物語るかの様に 紅く紅く染まっていった。 僕のこの身の全てを知り 貴方は何を想い何を感じられたのだろう・・・・・・ 伯爵の愛人。 伯爵の玩具。 そうとしか とりようの無い・・・ 今の僕の身分。 今の僕の姿。 貴方に全てを知られてしまった今 僕はこの生命すらただ虚しく哀しい存在に感じた。 何の為に僕はこの世に生きているのだろう・・・・・・ 「お母様!」 伯爵と同じく隣の部屋で待っていた二人が目を真っ赤にさせ 扉を開け入ってくるなり僕に抱きつき離れなかった。 この部屋のただならぬ雰囲気が二人を不安にさせたのだろう。 「お母様、どうされたの?」 「お母様、何かあったの?」 二人は涙で潤んだ瞳を真直ぐ僕に向けて 口々に自分達や僕の不安を和らげ様と僕に問いかけた。 そして震えながら僕の腰に抱きついた腕を放そうとしなかった。 そんな二人を見兼ねた伯爵が 乳母に隣の部屋に連れて行く様にと命じた。 乳母に諭されながらやっと僕から腕を放した二人。 「お母様、大丈夫だよね?」 「何処にも行かないよね?」 「ええ、もちろんよ・・・・・大丈夫。  安心してあちらの部屋で待っていて。  後で本の続きを一緒に読みましょう」 「はい、お母様」 「早く来てね」 「ええ」 扉に辿り着くまで何度も振り返っては心配そうな瞳を僕に向ける。 そんな二人を乳母は優しく肩を抱き耳元で 「大丈夫ですよ。  さあ、あちらで大人しく待っていましょうね」 そう囁きながら二人を隣の部屋へと誘って行った。 二人が居なくなって直ぐに伯爵は櫻井医師に問いかけた。 「櫻井くん、他に誰か良い先生はいないのかね?」 「いない訳ではあり・・ま・・・せ・・・・・」 「私では駄目なのでしょうか?」 今まで黙っていた貴方が 櫻井医師の言葉を遮る様に口を開いた。 「私では駄目なのでしょうか?」 貴方が同じ言葉を繰り返す。 「だが、君・・・・・奥は君が嫌だと申している。  奥が嫌だと申すのを私は無理に勧めることは出来ない。  君には悪いが他の医師に頼みたいのだが・・・・・・・  良いかね、櫻井くん?」 「私は構いませんが夫人は・・・・・・?」 「ですが、奥様は唯事ではない御様子。  このまま放っては・・・・」 貴方の言葉を今度は僕が遮った。 「私は何処も悪く等ありません。  ですからもうお帰りになって下さいませ」 「雅?!」 「櫻井先生が独逸からお戻りなられるまで  私は、何方にも診て頂きたくありません。  それでもどうしてもと仰るなら  私はこの場で舌を噛み切って死ぬ覚悟でございます」 「雅!!」 「夫人!!」 僕の言葉に貴方の顔が曇る。 「分かった。  そなたがそこまで言うのならば・・・・・そうしよう・・・・・。  櫻井くん、今日は済まなかったね。  では、また日を改めてお願いするとしよう」 「畏まりました。  夫人、もし少しでも体調が優れない時には  無理をせずに私をお呼び下さい。  私は3月まではまだ日本におりますので・・・・・・  それでは伯爵、失礼致します」 櫻井医師に肩を促すように叩かれ 扉に向かって歩き出した貴方の背中を もう二度とお会いする事の無いであろう貴方の姿を 扉を閉ざされた後も尚 僕は何時までも見つめていた。 この時、 僕はもう一度貴方と逢う事になろうとは思ってもいなかった・・・・・・。 春間近。 淡雪が庭の芝生を白く飾っている3月初旬。 僕の身体は血を吐き、 手術を必要とするまでに悪くなっていた。 遠退いていく意識の中で、 伯爵と幼い二人の悲痛な叫び声だけが警報の様に鳴り響いていた・・・・・・。
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